2019年3月3日

旅を。2


バイクでの旅。それはどういうものか。
これは僕が考える、「僕における」「旅」の考え方だ。



この30年で、バイクの販売台数は大きく減った。
バイクブームの頃は原付を含めると200万台以上が売れていたが、2017年だと38万台弱だ。(JAMA日本自動車工業会の統計より。
バイクに乗る年齢層も、次第に上がってきているそうだ。
今、ユーザーのボリューム層は40代から50代後半と聞く。

人生の中では働き盛り。
「自分が誰か」という問いよりも、社会の中での自分の仕事、役割、責任をしっかり果たすこと。そのことを自分の生きることの上位に置かねばならないポジションにいる人たちが多い。

と、すれば、自分の生き方、就くべき仕事、住むべき場所、携えるべき仲間、そんなものを探して、あがかねばならない若い頃の「バイク」とは、違う付き合いになるのも、当然ともいえる。
まずは無事に帰ること。
家庭を持つものは、家族の元へ。または、明日の仕事の場に。
すでに「さすらう」ことはゆるされず、バイクも「余暇」の中の「リ・クリエーション」の一つとして、家族や社会に認められるようにならねばならない。
ましてや、昨今のネット社会では、やんちゃをすれば、たちまち袋叩きに合い、名前や職業、住所、家族まで晒されたりもする。
(もちろん、そのことが凶悪な犯罪の抑止になったり、そこまでいかなくても傍若無人で他人を危険に巻き込むような行為の抑止になっていたりするのだから、それは、一概にどうこうと断言することは難しい。)

さらにバイクツーリングを変えたのは、「インカム」の進歩ではないかと思う。
走り出してしまえば、会話ができなかった昔に比べ、インカムで例えば同時6台をつないで常に6人で会話しながら走れるとなれば、走る際の孤独や、道に迷うリスクも、だいぶ軽減される。

バイクツーリングは、孤独な人間が一人で自分を向き合うために、自分を縛り付けている社会からつかの間、どこでもない場所、誰でもない自分に逃避行するものではなくなり、
家族や会社の仲間とは違う、バイク仲間の中の人間としての自分の「キャラ」で、休日を楽しく、充実して過ごし、元気を注入してまた家庭や仕事へ帰っていくための「リ・クリエーション」になった。


そういうものであれば、無駄なリスクは少ない方がいい。
楽しさを削ぐものもできるだけ排除したい。
本降りの雨の日にマス・ツーリングを敢行する必要はない。
美味しい店も、絶景も、走りやすいワインディングも何もない田舎道を、ただ走ってもしょうがない。
第一、コンビニもないところをつないで走るとトイレも、もしかしてガソリンも心配だ。
ちゃんと計画し、当日の天気や店の込み具合などもきちんと調べておけば、楽しい一日を過ごせる。

ツーリングは、未知の世界に自分と愛車だけで飛び込んでいく冒険ではなくなった。

日常から解放されたかに見えながら、日常をどこかそのまま持ち込むようなものとなった。

それは、最近の「ブームとしての登山」と似ているかもしれない。

バイクツーリングも登山も、最後は自然相手で、人間の力では如何ともしがたいものがあり、命を落とす可能性は常にある。
そう、片道50kmのグルメツーリングでも、毎年通っているいつもの山の山菜採りも。
運が悪ければ帰ってこられない。

バイクに乗るということは、「死ぬかもしれない」ということだ。
山に登るということがそうであるのと同じように。
だから、決して死なないように、覚悟と決意が必要だし、計画に合わせた準備が必要だ。
自分の責任で踏み込むという自覚は特に欠かせない。
そう、僕等はその覚悟のことを、「旅」と呼んでいたのではないだろうか。


そして、その覚悟の下で、自然の中に、あるいは人や人の営みを含めた世界へ、日常の中から踏み出していくとき、僕等は「自由」を感じていたのだ。

ここは日常の生活や仕事のルーティーンが通用しない世界。
自分のわがままや油断が通用しない世界。
周りの状況を自分で読み、自分で判断し、行動し、生きて帰らねばならない。
何が起こっても「自分のせい」。「自」分に「由」来する。
本当は偶然はみ出した対向車が悪い。
まさか、ここで土砂降りに遭うなんて、気象情報になかった。
カーブの向こうにトラクターが落とした土が大量にあるなんて。
それでも、自分で何とかする。
その結果を自ら、由(よし)とする。

その厳しさ、その残酷さ、その潔さ。
それを僕らは自由と呼んでいた。
そしてその自由を愛していた。

甘えを断ち切らせる、旅の日々。

旅に出ることが現実からの逃避かもしれない。
旅に出ていることが最大の甘えだと、周囲は攻めるかもしれない。
いや、自分自身が最もそれを知っている。

だが、

がんじがらめに包囲され、監視された中で決して自由は訪れない。そして、自由を手にすることなしに、人は甘えを断ち切れない。人は自立できない。


まだ職に就いていない若者は、自分が誰かを、探さねばならない。
自由の意味を学ばねばならない。
だから、若者には旅が必要だ。

しかし、50代になり、毎日社会の中で、役割、責任、愛情、思いやり、それらに包囲され、いつの間にか自分を粉にして疲弊しきっている大人たちにこそ、本当は「旅」が必要なのだ。

人はAIとは違う。
将来は分からないが、今のところ、AIは学ぶが、悩まない。苦しまない。自分の存在を問わない。
もしも僕等が、ただ仕事や家庭、社会的役割をミスなく、上手にこなすだけなら、やがて自分に求められるのはAIでもできる頭脳ワーク、メンタルワークになってしまう。
人は、それでは生きていけない。また、人は、人を必要とする。
生きる意味を、語るべき相手を、人は必要とする。


人生を自分のもとへ、引き戻すために。
生きる実感を、身体全体で感じ取るために。

自らの生きる意味を、自分自身に問うために、大人は「旅」を必要とするのだ。


モーターサイクルが旅の道具として優れているわけは、
自分の足だけでは到底到達できない距離まで自分を運ぶだけでなく、
自分の力では出しえない速度(それは生命として危険な速度でもある)まで軽々と到達し、非日常の世界へ運んでくれながら、その速度の危険性に対して箱で囲われている一般的な4輪車よりもはるかにリアルな感じを、ライダーに与えてくれることだ。
そして、2輪であることから自立できないモーターサイクルは、常に人の操作を要求する。

今、ここ、この事態(例えば見通しのよい田舎道を時速30kmで走っているだけだとしても)に関する「責任」と「自由」を、バイクはこの上なくリアルに与えてくれる。

猛烈に集中し、働いている日常生活や仕事の中で、実は、「責任」と「自由」を同時に実感させる瞬間は殆ど来ないのが実際だ。日常や仕事とは、ルーティーンとして結果を出すことに意義があり、その成果に用がある。

しかし、モーターサイクルライディングは、今、ここ、この事態をリアルにとらえ、自分の意志で向き合い、操作していくことが高い純度で求められる。それは、進化したVRをもってしても決して生み出しえない感覚だ。

現実から逃げ出し、走り出したツーリングでの瞬間、瞬間の方が、
今、生きていること、この瞬間に自分の命を守るに関しては、
日常生活や仕事の場面よりも、比べようもないほどにリアルなのだ。

これはモーターサイクルライディングの本質である。
レジャーで乗っていようと、旅として走っていようと。

しかし、ブームに乗ったカジュアルな登山ツアーが、時折、登山の本質をクライマーに自覚させることを怠り、稀に悲惨な事故を起こすように、あまりに「リ・クリエーション」に振ったバイクライフは、ライディングの本質をライダーに忘れさせる。


旅は、それを思い出させてくれる。


もう一つ、バイクが旅の道具として優れているのは、エンジンを持ち、部品の集合体として自分が出す以上の何倍もの力を発揮するこの乗り物は、完全に使いこなせる「道具」という認識よりも、自分とは違う別個の存在=「相棒」として、僕たちにその存在を認知させてくれる点だ。

自分の責任で、自由を、と言っても、人は本当に自分の思うように生きたり振舞えたりできるわけではない。

自然や、社会の中で、人は状況に対応しながら生きていくしかない。気まま、好き勝手と自由とは、まったく違う、というよりも好き勝手は自由から最も遠い概念とさえ言えると思う。

機械の集合体であるバイクは、無機質であり、生命がないことから、自分を映し出す鏡となってくれる。かつ、4輪のように自立できず、コーナリング一つでも乗り手の運転によって全くパフォーマンスを変えてしまう、「不完全な道具」であるこのマシンは、乗り手を常に必要としている。

日常から離れ、自分自身と深く向き合い、未知の自分を見出し、または、生み出そうとする旅人にとって、このバイクの存在の特性は、まさに絶妙なバランスなのだ。

人は、どこまで言っても未完成なものであり、不完全なものだ。
だから、旅の相棒も、そうしたものの方がいい。
そうでありながら、自分でないもの、自分を超えるもの、超えるところを持っているもの、そうしたものがいい。


それこそが、オートバイの本質なのだ。
だから、ライダーを必要としない完全で安全なバイクの開発は、一つには望ましいものでありながら、それはもう僕らの愛したバイクではない、というのも、ある意味真実ではあるだろう。

果てしなく進化していく電子デバイスに、あるところから拒絶反応を起こしてしまうライダーがいるのは、一つは単なる懐古趣味かもしれないし、自分の青春を懐かしんているだけなのかもしれないが、もう一つ、モーターサイクルライディングの人にとっての本質と、その喪失の可能性を感知しているからなのである。

誰もが高スペック(昔で言うなら、高学歴、高身長、高収入の三高、今なら低姿勢、低依存、低リスクの三低)の相手を求めるわけではない。
そういうもので測れない、もっと大切なものというのは、単に「愛」や「尊厳」などの言葉(イデオロギー)としてではなく、もっとリアルに存在しているのである。

それがモーターサイクルであり、モーターサイクルと行く「旅」なのだ。

旅を。

小さな旅でいい。
今年は、ゆきかぜと旅がしたい。

*「ゆきかぜ」は僕のバイク(モトグッツィV7Special 2013)の名前です。

4 件のコメント:

  1. バイクは「旅」(旅行ではなくて)
    そう、Journey(Jで始まるんだね)
    だから、Joy(楽しい)

    tkj式 三段跳び論法 です! サンダン トビ w

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    1. tkjさん、こんにちは。
      素敵な三段跳び論法! ありがとうございます!

      「旅」、だから楽しい。
      先の分からなさや、その途中そのものが楽しい。
      そんなバイク旅を、今年もしていきたいです。

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  2. 樹生さん こんばんわ。
    樹生さんのライディングを思い浮かべると、長い、重い、重心も高い、あのGPZ1100を駆って
    考え、悩み、楽しみ、理論と体感を交互に味わっているようにも感じました。
    型からはいって型で練度をあげるしかできなかった不器用なワタシのライディングは、
    実は身体のキレに頼るところが多く、たとえ背中がお疲れでも笑いながら柔らかい走りをみせる
    樹生さんのライディングから学ぶものが今もあります。

    バイクの旅、樹生さんには何人かの樹生さんがいて、旅の中で二人目、三人目と出てくるのでしょう。
    美しい季節に愛でる樹を目指す時、加速で左右の景色が溶ける時、氷雨降る峠を見上げる時、果てない
    復路の距離に気が遠くなる時、”その時にこそ”現れる何人目か自分を走りの中で確認することができる
    のもバイクの旅に魅せられるところだとそう感じました。


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    1. kaoriさん、こんばんは。
      ありがとうございます。
      僕の走りは、バイクで走り始めた22歳の時から、
      僕の悩みや、苦しみ、喜び、思想、そういったものが
      すべて入っている、そんな走り方だったと、自分では思っていました。
      kaoriさんに、今回、言っていただいて、
      それを感じてくれる人がいたんだと、驚きと喜びを感じています。

      kaoriさんの走りは、前も言ったことがありましたが、
      筋力でねじ伏せるのではなく、身体の捌きというか、
      重心の位置やその移動、姿勢、身体各部の動きの連鎖の仕方など、
      何か武道的なものを感じていました。
      kaoriさんに話を伺って、やはりか!と思ったことを思い出します。
      今、プロのライテク論は、作用反作用を大きく起こすマシンへの入力系から、マンマシン合わせての動きを総体で見ていくような重心移動系、捌き系に移ってきているように思います。
      初めてお会いした時から、kaoriさんのライディングは、そういうものでした。
      しかし同時に、凛としたその走りは、「実は体のキレに頼るところが多く」ということには、気づいていませんでした。
      確かに、助走(予備動作)をつけないあの走りの「キレ」は、誰にでもできるものではありません。そこがkaoriさんの走りの魅力でもあり、美しさでもあり、見とれてしまうものでした。
      私もkaoriさんの走りは、忘れられません。

      私の中の二人目、三人目、という旅の魅力。
      これもああ!と、膝を打ちました。
      自分では考えていなかったのですが、
      なるほど、まさにそういうものに近いものがあるな、と思います。
      「”その時にこそ”現れる何人目か自分を走りの中で確認する」
      はまさにそうかもしれません。それこそが、僕のバイクの旅の歓びなのかもしれない。――と思いました。

      kaoriさん、ありがとうございます。

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