2024年4月5日

憧れ(1)

4月に入り、仕事の上で新しい年度に入った。
僕は、ライフワークバランスの見直しのため…というとカッコいいが、過労が恒常的になってきて、この齢では何年も持たないと判断して、職場を変えることにした。
業務内容は同じで、パート勤務も一緒なのだが、時間を減らし、給与もかなり下がるが(新しい職場は仕事単価が安い)、少し余裕を持つようにした。

2024は、少しギアを変えて、いろいろ試しつつ、やっていくことになる。

さて、昨年買った、RIDRES CLUBのバックナンバー。
少しずつ読んでいるのだが、毎巻圧倒される。

もちろん圧巻はそのインプレッション記事なのだが、
たとえば、表紙一つにしてもそうだ。


1982年8月号は、特集がホンダのVT250Fと、スズキのGSX400FS.
VTは、MCの世界を変えた、傑作であり、まさに「画期」的なMCだった。

スーパーカブがMCの概念そのものを変え、社会の中にMCという存在を植え付け、根付かせた大傑作だったのに対し、

CB750Fourは、異次元のハイパフォーマンスと750㏄!インライン4!で、大型バイク、バイクのパフォーマンスの限界を完全に書き換えてしまった。

そして、VT250F。
世界GPの最先端技術を惜しみなくつぎ込んだ、これも異次元の250㏄(クォーター)。
1980年、ヤマハが発売したRZ250 は、衰退しかけていた2stスポーツバイクを一気に蘇らせた。
4stのホンダが黙っているわけにはいかない。
これでもか、のハイスペック、ジェットフィール、エンジンも、ブレーキも、そして切れ味鋭い走りも、超とんがったスーパースポーツマシンだった。
走りのエキサイトメントに関しては、RZとVTはほぼ互角だった。
しかし、VTには、RZにないものがあった。それは、4st90度Vツインならではの、低・中速域の扱いやすさである。

これにより、このハイパフォーマンスバイクは、先鋭化した走り屋たちだけでなく、老若男女、幅広い層に歓迎されて大ヒット。
「スポーツバイク」に乗る層を飛躍的に広げることとなったのである。

その特集号の表紙がこれだ。


まさか、こんな驟雨の中の写真とは!!
おそらくこれはシャワーだろう。
背後からの強い逆光と、前面下方からの光と、そしてスローシャッター。

凄まじい。

RZの牙城に単身殴り込みをかける、その姿の迫力を、こんな形で表すとは。

表紙は、ただのアイキャッチでも、内容のインフォーメーションでもなく、
それそのものも重要な中身(コンテンツ)そのものだった。

もう一つ行こう、
4年後、1986年7月号の表紙だ。


FZR400!
それは、激戦区400㏄スーパースポーツ市場に、走りそのものが完全にF3レーサーの基準で作られたマシンとして投入されたもの。
同号に掲載のVT250Fが3代目となり、絶対性能を上げながらもさらに懐を深くして、誰でも扱えるスタンダードバイクとして登場してくるのとは対照的だ。
まるで4stのRZ、いや、RZはまだ、猛烈なロードバイクだったが、このFZR400は、「レプリカ」ではなく、純レーサーを公道走行可能にしたもの。

スズキのGSXーRが1984年、一足先にデビューしていたというものの、5バルブ、ジェネシスエンジン、アルミデルタボックスフレーム、前後ワイドラジアルタイヤのこのマシンは、走りの質そのものがレーサーベース。
高性能なロードバイクをレーサーに近づけたものとは、決定的に違う、ライダーを選ぶマシンだった。

その表紙もまた、雨。
夜の驟雨の中、今まさに跨らんとするライダー。
2眼ライトは煌々と輝き、マフラーからは雨の中、水蒸気が強い逆光のライトの中、浮かび上がる。

闇に忍んで隠れていた猛獣が目覚めて飛びかかろうとする一瞬前のような、迫力。
そしてそれを御することの厳しさ、走らせるために問われる【覚悟】。

FZR400を走らせるということがどういうことなのかを、
こんなにも、美しく、厳しく、切ないほどに表現したものだ。

そう、当時、RIDERS CLUBの表紙を飾る写真を撮っていたのは帆足侊兀(ほあしてるたか)カメラマン。

凄まじい表現力。そして理解力。

絶対に敵いそうにない。
当たり前だが、それがプロというもの。

素人には、絶対に敵うことはできない、遥かな高み。
それを見せてくれたのが、当時の『RIDERS CLUB』だった。

自分がそれを目指すのかどうかは別として、
ものごとには、ゆるやかな広がり、分かりやすさ、親しみやすさと同様に、
その世界の遥か高みを見せてくれるものが必要だ。

憧れ

それが、後進を成長させる力となる。

今のモーターサイクルの文化に決定的に不足しているのは、
そうした高みを見せてくれるメディアなのだ。

特に、死亡事故に至ることもあり、しかも、死亡事故の加害者にもなることもあり得る、このMCにおいて、一種の厳しさの感覚は、絶対に必要だ。

バイク乗りと乗らない人をあちら側、こちら側と呼んで、内輪の美学に酔う、硬派に見せかけた軟弱さや、命の重さのかけらも感じさせないただのガキの大騒ぎがバイク文化のメインストリームになってしまったのは、時代だから仕方ない。
これでも暴走族が跋扈した時代や、休日の昼間から観光道路で一般ドライバーが怖くて走れないような状態を平気で作っていたローリング族の時代からみれば、そうとう「マシ」になったとも言える。

しかし、モータージャーナリストや、二輪ジャーナリスト、バイクジャーナリストを自ら名乗るなら、この世界の高みについても語り得る人であってほしい。

「バイクメディアで仕事をしています」というスタンスは全く悪くない。
しかし、そういう人しかいないのは、文化としてはさびしい。
少なくとも、バイクメディアで仕事をしているプロの方々には、そうした高みへのあこがれを、せめて語ってほしいと思う。

通販番組みたいなバイク番組しかないと、いずれ安直なブームがなくなれば、バイクの文化も先細りになっていくだろう。

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