2024年7月30日

ひと時、ひと息

今年こそ…!と思っていたのだが、
まだ道東との峠を越えられていない。
そう、日勝峠も、狩勝峠も、三国峠も、今年は通れないまま、
そして富良野にも美瑛にもまだ行けないまま、
夏が過ぎ去ろうとしている
思った以上に、忙しい日々が続いているのだ。


パート勤務の仕事上のデメリットは、それはもう挙げればきりがないが、
メリットと言えば、個人的には、職場での拘束時間が(実質は別として)短いことだ。
例えば、午後3時過ぎに仕事が終わることもある。
そんな時、1~2時間だけ、ゆきかぜで走ることもできる。

そんな時、札幌市は、街中を走る楽しみは少ないのだが、
市街地のすぐ隣に山が迫っていたり、ちょっと外れた途端に畑が広がっていたりするのが、僕には「救い」だ。

気がつけば人生の半分以上を100万人以上の都市で暮している僕だが、
たぶん僕は、都会には向いていない。
繁華街には必要最低限しか出かけないし、出かけても早々に帰ってきてしまう。
ビルで仕事しているのに、ビルの狭い空間が苦手だ。
デパートやショッピングモールは15分で顔がのっぺりしてしまう。
地下鉄やバスはいつまでたってもどこか怖い。

でも、たぶん田舎にも向いてはいないのだ。
地縁血縁のがんじがらめの「世間」
顔役を立てないといけない人間関係
息が詰まるような、淀んだ空気。


そう、僕の田舎好き、田舎の風景好きは、
自分はその中に決して入らず、その風景を作り、守っている、何代もの地道な努力の積み重ねに触れようともせず、ただ通りがかって「きれいだなあ…」なんて無責任に、能天気に語ったりする、そういう傍観者的で自分勝手な感傷にすぎない。

だが……、

と、最近は思うのだ。
その感傷を、感傷以上に飾り立てないようにして、大切に抱いていくことも、まあ、いいというか、仕方ないのではないか……。
そう、僕はたぶん、定住型ではない。

同じ場所で、コツコツと、改良を積み重ねて少しずつ仕事を熟成していくような、
または、
変わりゆく環境に素早く適応し、さまざまな、細やかな工夫を施し続けることを通して、変わらぬ良さを維持し続けていくような、
そんな生き方、働き方は、できない人間だ。

いつでも、どこかに行ってしまいたくなる。
うまく行かなくても、うまく行ってもだ。

繰り返しには耐えられない。

だから、子どもの頃からテレビ番組の「サザエさん」が嫌いだった。
誰が何をしても、結局は何も変わらず、
翌週には先週何も起こらなかったかのような日々が始まり、
それが延々と繰り返され、いつまでも続くのだ。

僕は子どもながらに、身の毛のよだつような嫌悪感と、恐怖に近いものを感じていた。
我ながら、それは極端にすぎると、これも子どもの頃から思っていた。

僕はまともじゃないのか?

だから、算数のドリルも書道の練習も嫌いで、
計算はいつまで経っても間違うし、字はずっと汚いままだ。
大人になってからも、筋トレが続いたためしがない。



バイクを買って、走り回るようになってからも、できるだけ通ったことのない道を、毎回走りたかった。
知らない所、知らない道を、ひとりで走りたかった。

しかし、毎回全く新しい道を走るという訳にもいかない。
学生の頃は勉学があり、社会人になってからは仕事もあり、時間は限られていたし、
自分の心も、自由ではなかった。

やがて、いくつかの、定番ルートのようなものが次第に出来上がっていった。
広島で言えば、広島市街から太田川を遡って、可部を過ぎ、加計に向かう途中にあった、川を見下ろせる崖の上の細い道の90℃カーブの所や、
廃線になって久しい三段峡線の無人駅の側の、川沿いの桜の樹の下の、自動販売機の缶コーヒーなどだった。


札幌に住んでからは、
札幌市簾舞から八剣山のあたり。

しばし、都会から、現実から逃げ出し、
どうしようもない自分と、
どうしようもなさを責める余裕もないバイクライディングをしながら
走り、木々の中を抜けたり、
真面目に暮らしている人たちの生活の風景を、
眺めたりする

定番のコースになってしまって、
新鮮味はないかもしれないけれど、
同じ風景でも、毎回違う。
その違いを逐一説明できるほど、つぶさに見ているわけではないが、
元気だった樹が衰えてきていたり、
畑だったところが田んぼに変わっていたり、
その田んぼが何枚か休耕田になっていたりする。

道端のイタドリは恐ろしく伸びるのが早いが、
年に2回ほど、一気に刈られる。

山の樹々のみどりは、季節と共に少しずつ、色合いを変えていく。
夏本番が近づくと、緑に少し黒みがかかって、その存在を
少し重くしていく。



GPZ1100は、MOTOUGZZI V7になり、それも12年目を迎えている。
40代前半だった僕は62になり、身体もだいぶ変わった。

今は二度と、戻っては来ない。
たとえ短い時間でも。
それをここに、押しとどめておくことはできない。

一日を走ることの大切さと、大変さを
肌身で感じるようになってきた60代。
同様に、
ひと時の遁走、ひと息の呼吸の
あわただしくも、静謐な、
その瞬間を
思いとどめることもできないままに、
せめて、この身体に、沁み込ませたい。

だから僕のライドに、「ヤエー」も「イエー」も「ハイタッチ」もない。

あるのは、とても贅沢な孤独と、邂逅の時の「ピースサイン」だ。

2 件のコメント:

  1. MCと出会いその時間はひとり一人様々だけれども、
    >ひと時、ひと息、
    いつの間にかそんな時間を、とても贅沢に思えるようになっていたりです。
    クルマで走っても得られない。誰かと走ってもきっと満たされない。
    雑音?の無いその時間は、自分だけのご褒美にしていたいかもです。







    返信削除
    返信
    1. 34se.selenさん、こういう話、感覚を共有してもらえる機会なんて、ほとんどないので、なんだか、とてもありがたい気持ちです。
      人と走るのも好きなんですが、それは、ひとりで走るのとは、全く別の体験だという感じがします。
      34se.selenさん、ありがとうございます。

      削除