2025年9月30日

北海道の樹を訪ねて55 浦臼町「おじいさんの樹」


 浦臼町、浦臼小学校の校舎は、国道から校庭を挟んで向こう側にあります。

その小学校の敷地、国道に面した北の端に「おじいさんの樹」があります。正確には、「ありました。」

(「聖地巡礼ーバイクライディングin北海道」と共通の記事です。

道路から校庭ごしに校舎を見ています。

二階建のコンクリート校舎、右側は体育館ですね。立派な校舎です。

浦臼小学校の起源は、明治30年に設立された公立聖園尋常小学校。今から158年前ですね。

2024年度の統計では、全校児童数は55名。町内唯一の小学校です。


学校前をゆきかぜで通過しようとしたら、異様な白い柱が。

そのスケールがお分かりいただけるでしょうか。巨大な樹の切り株です。

切り株自体の高さも5mくらいあるでしょうか。


切り株の隣に横長のきれいなパネルがありました。



看板の文面を読んで見ます。


【おじいさんの樹】(エゾエノキ)

令和元年、浦臼町は開町120周年を迎えました。
「おじいさんの樹」は、浦臼町の開拓以前、この周辺一帯が原生林に覆われていた頃より、風雪に耐え、町の開拓の歴史や子どもたちの成長を見守り続けてきました。
「おじいさんの樹」とは、浦臼町の学芸会において、この巨大樹を題材とし、「おじいさんの樹」として創作劇を発表し、以来「おじいさんの樹」として子どもたちに親しまれてきました。
 しかし、令和元年10月8日、関東甲信地方を中心に大規模な災害となった台風19号の接近に伴う大風により、巨大樹の約半分が裂け落ち、安全性を考慮して伐採されました。
 浦臼小学校のシンボルとして親しまれてきた「おじいさんの樹」は、令和元年、浦臼町開町120周年の年にその役目を終えることとなりました。
 

パネルの中に、在りし日のおじいさんの樹の姿が写真でありました。

樹高20.6m 胸高周り 5.2m(令和元年10月測量)

倒れる直前に計ったのですね。

さぞかし、立派な樹だったことでしょう。

私自身、何回もこの前を通っていたはずですが、記憶にないのが悔しい気持ちがします。



台風に倒れ、伐採から7年。

切り株は風化が進み、樹皮が残っているところと、おそらくは立っていた時から傷んでいたであろうところがキノコなどによって分解され始めていました。

「開拓」前は、北海道各地、至る所にあったであろう原生林と巨樹たちは、「開拓」とともにほとんど切り出されて木材として道内で使われたり、本州以南へ送られたりしました。

北海道の森林の殆どが一度伐られた後に生成された二次林。十勝の山の奥でさえそうです。

また、北海道には何百年も前からのお寺や神社がない。

だから、ずっと守り続けてきた樹というものもない。

おそらくアイヌ民族の人たちが特別な樹としてきたものはあったのではないかと、私は思うのですが、それらもまた、和人(私も和人です)たちによって伐られていったのでしょう。

だから、こんなに広い北海道の大地で、その面積に比べると巨樹はとても少ないのです。

いくつかは山の中で、いくつかは、学校の庭で、それらの巨樹は残りました。いや、巨樹があるところは、その辺りの中では気候条件がいいところなのです。だからこそ、何百年も樹が生き延びて大きくなった。その樹のそばに、大切な子どもたちが学ぶ小学校を建てようと思うのは、胸の底からうなずけることでもあります。

「おじいさんの樹」の切り株の横の看板の文章からは、故郷の町と、子どもたちと、巨樹への深い愛が感じられます。


看板には、「おじいさんの樹」の樹種であるエゾエノキの説明と、国蝶オオムラサキの写真も添えられていました。

オオムラサキの北限は北海道。現在でも札幌市周辺や栗山町などで見かけることができます。浦臼にも、いたのかもしれません。



おじいさんの樹の木陰は、浦臼町で育った大人たちの誰もが記憶として胸に抱いていることでしょう。

今、浦臼町で一つになった浦臼小学校の子どもたちは、一学年平均すると10人程度。

過疎化と少子化は、日本全国で進んでいます。

旅人である私が、勝手に感傷に浸ったところで、何の意味もないことは分かっているのですが。

浦臼小学校では、地域の方々の支援も厚く、米作りや野菜作りの教育、郷土資料館との連携、札幌市の地下歩行空間での児童たちによる地域学習の発表など、町をあげて、子どもたちひとりひとりを大切に、育む教育活動を行っているようです。(浦臼町HP等による)

倒れた「おじいさんの樹」。

倒れても、樹体はなくなっても、これからも子どもたちを見守ってほしいと、願ってしまった樹生でした。


まなざしは 躯となりても あたたかき 

樹生和人

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