2018年5月13日

新しい道、いつもの道。

知らないところへ行きたい。
まだ走ったことのない道を走りたい。
行ったことのない町、知らない海、山を見たい。
峠を越えたい。
若いころの僕は、そんな思いで、いつも走っていたような気がする。
その根底には、現実が苦しくて、世界や自分になじめなくて、
とにかくどこかへ逃げたい願望が、いや、渇望と言ってもいいと思うが、
いつもあったからだ。
(写真なし、文字だけの記事です)

だから、知ってる道を走るだけでは、逃げられなかった。
知らないところへ、まだ見ぬ世界へ、それと出会うことでまだ見ぬ自分へ、
走らなければ、生きていけなかった。

20代、30代の頃だ。

50代の半ば。
今、同じ家に14年住んでいる。
これは、僕の人生の最長記録で、同じ家から日帰りで走りに行くとなると、
もちろんまだまだ無数に走ったことのない道はあるわけだが、
混んだ市街地、代わり映えのしない風景などを除くと、
さすがに毎回新鮮な道というわけには行かなくなってきたのだった。

そして、昔よりも泊りのツーリングに行きにくくなっている。
それは、仕事のせいでもあり、親や親戚の、老いや病、死去など、
年齢を重ねて、その上の世代が高齢になってきたことからくるものなど、
いろいろな条件が重なって、
自由に走り出せなくなってきたのだ。

もちろん、体力と気力の衰えも大きい。
昔なら、深夜でも思いついたら走り出していた。
今、それをすると翌日の仕事が…と考え、
通勤中に疲れから不注意の事故を起こさないか…とも考える。

走り出せない。遠くまで、なかなか行けない。

限られた時間の中でライディングそのものも楽しもうとすると、
おのずから徐々にコースが決まってきて、
「いつものコース」のようになってくる。

年に数万キロ走っていた若いころには、
「いつものコース」の先に、未踏の地への走りが継ぎ足され、
毎回新鮮な走りとなり、毎回初めての土地や道を走ったものだったが、

ここ数年は、いくつかの「いつものコース」に、
少しだけの寄り道を加えることが精一杯の感じになっている。
いや、気が付けば、国道275号線を行くときも、
なんとか新しい裏道を見つけようといろいろさまよったりして、そのうちに
意外な快適ロードを見つけたりもしているのだけれど、
基本的にいつもの所へ行くような走りになっていることが多いのだ。

昔の僕には、考えられないことだ。

しかし、こうして自分もブログを書き、さまざまな方のブログを拝見していると、
定番のコースを持っている人たちの、その定番のコースの走りが、
毎回楽しそうで、かつ、新鮮で、同じコースでも同じ風景は二度とないことや、
同じコースを走るからこそわかる自分の変化などもあるのだということを
改めて感じさせられることが、これまた多いのだった。

同じ道を走っても、毎回違う。
毎回発見がある。いや、そういう派手なものでなく、
毎回走ることで、前回と違う「今の自分」を見つけていく。
そういう走りは、確かに、ある。

年齢を重ね、仕事ももう同じ仕事をもう34年目になった。
名刺に書く仕事は同じでも、だいたいの現場の空気感を知るようになっても、
本当は毎年、毎月、新しいことばかりが起きている。
同じことの繰り返しは決してない。
これもまた、同じような変化でもある。

しかし……、
これは僕の個人的なことなのだが、
やはり僕は、いつまでたっても「この場所」に馴染めきれないでいる。
人生の選択に大きな後悔はないし、納得もしているが、
若いころから感じている「世界に馴染めない居心地の悪さ」は
ずっと解消されていないのだ。
いや、なんと言うか、僕はたぶん、「定住したくないタイプ」なのだと思う。
家を建てるまでは、ある意味「転勤族」でもあったし、それを厭わないタイプだった。

いや、今でも、どこかへ行ってしまいたい気持ちはある。
だから…ということもあり、バイクで走ることで、擬似的にどこかへ行ってしまう
経験が必要なのかもしれない。
かくれんぼや鬼ごっこのように、集団からの離脱と帰還ということを行わないと
バランスが取れないタイプなのかもしれない。

今、現実に新しい道はそう度々は難しく、
いつもの道の、変わらないように見えて新しい側面にも、
少しずつ救われるようにもなってきているのだが、

車を軽にできないのも、バイクを手放せないのも、
僕はまだ、遠くへの旅を求めているのかもしれないのだった。

6 件のコメント:

  1. こんばんは。
    ここ数年、すっかり「いつものコース」になってしまっています。

    好きなように時間を使って、というのが難しくなってきた事、愛車・sport の得手不得手や相性、僕自身の持久力(ライポジの厳しいsportを気持ち良く乗るための)などなど、いろんな要素が重なってのことなのですが。
    それでも飽きないのは、まさしく仰る通りで、「毎回違う」のですね。
    まだまだ発見や気づきがありますし、乗り方に工夫があって、今の自分が気持ちよく走れる方法やスキルを探したり、その瞬間瞬間のワインディングを楽しんだり。
    バイクって面白いですね。
    月に何回かという少ない日数、さらにその中の限られた時間を、そこに没頭したい自分がいます。
    そして周りを見渡した時に、その時その時の季節の景色があって、これもまた、なかなか同じという事がないものですから素敵です。

    でもこんなスタンスも、何かのきっかけでバランスが変わってくる事がある。
    そんな変化も含めて楽しめる、好きでいられる世界を知っていたり、他の人のスタンスにも共感を持てたりというのは、きっと幸せなのでしょうね。
    バイクや、クルマ(小型のスポーツカーというかなり限られたカテゴリーですが)を好きでよかったな、と思っています。

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    1. Hiroshi Mutoさん、こんにちは。
      バイクの楽しみには、仲間と一緒にツーリングというイイベントを楽しむ楽しみ、
      一人でさすらう旅の楽しみ、景色を眺める楽しみなど、いろいろあると思うのですが、
      Hiroshi Mutoさんは、やはり「走りそのもの」に向き合っていくタイプなんだなあと、
      勝手ながら失礼ながら、コメントを拝見して改めて思いました。

      ハンドリングの追求。
      走りの向上。
      自分の操作と、バイクの応答。バイクの動きと、自分の反応。
      その関係性を高めながら、走りをより気持ちよく、安全に、美しく。

      もちろんそこだけではなく、走りの中で感じる季節や、風のにおいや、
      光の感覚、雨が雨具に当たる感触、冬の手がかじかんでくる感じ…、
      こうした五感で感じる世界すべてが、バイクライディングの醍醐味を
      作り出している、大切な要素の一つ一つで、
      だからシミュレーターやゲームだけでは絶対に味わえない
      生きている感覚に、バイクは直結しているのだと思います。

      Hiroshi Mutoさんおっしゃるように、
      自分のスタンスも、「何かのきっかけでバランスが変わってくる事がある。」
      「そんな変化も楽しめる」……それは、
      やはり長く走り続けてきたことへの、ご褒美なのかもしれません。

      私も、バイクが好きでよかったと、思っています。

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  2. じつに考えさせられた文章でした。
    自分も以前はひたすらに遠くを、まだ行ったことのない場所を目指して走り続けていた事がありました。
    今でも何とか連休を作り年に1度くらいは行くようにしています。
    ツーリングルートの作成に着手してから多くの年月が経過しましたが、飽きるどころか今年はもしかしたら完成するのではないかという淡い期待を抱いたりもしております。

    オートバイの楽しみ方は人それぞれで、自分に合ったものが多分あるはずではないかと。
    文章から悩みを感じたのですが、共感能力が欠けている自分には良いアドバイスができそうもありません。
    オートバイを走らせるのは楽しいけど、いつも同じ道を走るのは…
    やはり気の利いたセリフは出てきませんorz

    オートバイを走らせるのがとても楽しい。
    樹生さんにそのような一日が訪れますように、と。

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    1. 緒崎さん、こんにちは。
      ありがとうございます。
      自分のツーリングルートを作っていく、いろんな道を試し、
      走り方を試し、次第に完成度をあげていく…。
      この方法論は、昔『ライダースクラブ』で根本健氏が、当時のヨーロッパのベテランたちの方法論として紹介していたものでした。緒崎さんは独自の方法で、そういうルートを練り上げていくやり方、深め、完成させていくやり方を、編み出し、そうした毎回のトライの中にわくわく感も感じられているのだなぁ…という感触は、緒崎さんのブログを拝見していて、いつも感じることで、以前、コメントか記事で書かせていだたいたこともありました。
      私にとってはとても新鮮で、そして新しい可能性を実際に見せていただいている感じがしています。
      バイクで走るたびに、絵にかいたような最高の一日が訪れるわけではなく、もしそうだとしたら、そんな予定通り、期待通りの楽しさは、きっとどこか私には、反復の苦しさを感じさせるものだと思います。

      いつもの道を行きながら、いつも何かしら違いがあり、それがプラスのものでも、マイナスのものでも、その日だけのこととしてリアルに感じ、よろこんだり、残念がったりしながら走っていける…それって、とても素敵だなあ…と拝見しています。

      現在の悩みは、むしろライディングやツーリングのスタイルというよりは、仕事のことや、ライフバランスのことから来ているものだと、自分では思っています。
      いや、単純に仕事やらなにやらに疲れすぎているのかもしれません。

      「乗ればパラダイス」…ではないにしろ、私にとってバイクで走るということ、そのことが
      非常に大切な、重要なことであり、走らせている時には、いつも「ああ、帰ってきた」という解放感と幸福感を感じます。

      仕事の連鎖、いろんなしがらみの忙しさを、一旦、2日間でも脇に置いて、
      「オートバイを走らせるのがとても楽しい」「そのような一日」もしくは2日間を、
      過ごしたいなあ…と考えています。
      緒崎さんが書いてくださったことは、私自身の願いでもあります。
      緒崎さん、ありがとうございます。
      大きな流れとしては、あと3年くらいはこの忙しさは続く予定ですが、
      少しの隙間を作ることは、6月くらいから徐々にトライしていきたいと思っています。
      幸い、それが可能な条件が少しずつですが、整いつつあるので。

      次のツーリングが、ショートでも、楽しみに待っている私です。

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  3. 樹生さんと同じ年齢の僕ですが・・・
    僕の20代から40代は、樹生さんと逆に走りたくても走れない日々でした。
    豊かな学生時代と真逆の・・・社会に出てからのそのギャップは計り知れなく、
    年に4回の長期休暇で深呼吸だけは出来ましたが、せめて週に一度だけでも良いから走る時間が欲しい・・・
    当時は24時間闘えますか・・・そんな時代でした。
    少しだけでもいい・・走ること、それはいつも強烈な欲求でした。無理に自分を押さえつけながら、
    ただただ長期休暇までじっと我慢していました。

    それでも日々やっぱり走りたい気持ち、と言うよりも・・・
    本当の自分の居場所は知っているのにそれが出来ない苦しさ・・・
    本当の自分を解放できる時間は必要でした。
    仕事が終わるのはいつも深夜・・・
    丑三つ時に、KATANAのタンクに手を触れ、相棒に声を掛ける。
    すぐあるインタ-から高速道路に乗り、
    真っ暗な高速の道を旭川までをただただ一人で突っ走る・・・
    でもそれでも・・・狂おしい想いの中で、その深夜のひと時にどれだけ心が救われて来たことか・・・
    同じ年齢、でもモ-タ-サイクルと過ごして来た時間は違うけれども・・・
    僕たちはやっぱり純粋にただただ走れることが、とても幸せなんだと思ったりしてます。
    こうして走れる日々があることに心から感謝。


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    1. selenさん、こんにちは。
      ありがとうございます。

      selenさんは、20代から走れない日々が続いたのですね。
      深夜の高速疾走、とても分かる気がします。(勝手にすみません。)

      私も昔札幌に住んでいた昭和時代には、夜中に何度も支笏湖まで往復していました。
      広島に住んでいた時には、私も夜中に高速一気走りをしたこともあります。

      走らずにはいられない…。なにかそういうものを身体の核に宿して、生きてきたように
      思ったりもするのです。

        僕たちはやっぱり純粋にただただ走れることが、とても幸せなんだと思ったりしてます。
        こうして走れる日々があることに心から感謝。

      本当にそうだなあ…と、思います。
      私はそういう人種を若いころ「ライダー」と呼んでいました。
      そして「ライダー」というあり方に憧れを感じていました。
      自分の中に本当に走りを大切にする生き方がある。
      その生き方をバイクで走らない時でも、誰に対しても、
      誠実にしようとする人間、そういう人間を、「ライダー」と呼ぶ…と。

      ライダーへの道、未だ途半ばといったところでしょうか。

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