2022年5月4日

ゆきかぜと花見散歩を動画にしてみました。

 

YouTubeに、昨日の記事「ちょっとだけ、ゆきかぜと花見散歩」の桜の部分だけを動画にしてUPしてみました。


昨日は、午後からふらっと1時間半くらいのバイク散歩で、録画テストはしてみたのですが、それを動画に上げるつもりは当初なかったのですが、いつも見る南区、八剣山のふもとの砥山の道端の一本桜がきれいで、つい録って、ちょっと編集してUPしてみました。

もう、動画を録り始めて、もうすぐ3年になります。

ツーリングで写真を撮ることを始めたのは、20代の時。
その時のカメラは、旅先のコンビニで買う「写ルンです」でした。
気が向くままに、ポケットから取り出して、パシャパシャ。またポケットに突っ込んで。
落としてしまっても、それほど落ち込まず。

でも、現像してできた写真を見ると、
ああ、こんな風景じゃなかった。もっともっと、胸にくるものだったのに…。
と、いつもがっかり。違和感を感じていました。
できあがった写真はいつもべたっと平板に感じられました。

しかし、数年経ってみると、ああ、こんなんだった…。あの時のツーリングは楽しかった。
と、思い出されるようになりました。

ブログを始めたのは2007年。
ツーリング先で写真を撮って、文章を添えて、ブログ記事にUPする。
もともと文章を書くことは嫌いではなかったので、
このスタイルは自分でも楽しかった。
でも、ツーリングの純度は、すごく下がった気がしました。
記事を書くために、止まって写真を撮る。
だれかに見せるために、ツーリングをしている。
どこかに、ネタはないかな…。
そんな意識が頭の片隅にいつもある。
それは、僕の大切な、旅の純度を下げてしまっているような気が、
していました。

ブログを始めて10年以上経ち、その違和感は、あまり感じなくなり、
なぜなら、ネットの闇の向こうに、読み手の姿、贈る相手が、イメージできるように
なってきたから。
届けたい人がいて、その人に向けて記事を書く、ということに、
僕のバイクライフは、次第に「馴染んで」来ていました。

さて、何度も書いていますが、
2019年から動画を録り始めて、
それを編集してYouTubeにUPするようになり、
また、新たな「違和感」を感じています。
ツーリングの中に動画撮影という要素が入り込み、
自分の旅の純度が、また大きく下がったように感じるのです。
旅の最中に頭の中でいつも動画撮影のことを考えている…。
それは、僕の大切な、バイクでの旅、バイクでの走りの純度を、
大きく損なう行為のように感じました。

写真よりもさらに編集要素が大きく加わる動画(たとえ、録りっぱなしだとしても)は、
表現するときに大きく作為が加わる。
それは、記録ではなく、表現、映像表現なのです。宿命的に。
その心構えが、自分にはできていなかった。
旅の最中にただ録画ボタンを押してカメラを回せば、動画が録れるものでもなく、
強烈な表現意識、編集意図がなければ、動画としてまとめて、UPできるものでもない。

そのことに、やってみて初めて直面することになりました。
そこでどうしようもなく露呈してしまうのは、
自分の意識、考えの癖。
そして動画という表現に対する経験やセンスのなさ。

写真の時にも、撮った写真と、記憶の風景との間に大きな違いを感じて
ショックを受けていたものでしたが、
動画の場合は、それはほぼ、「表現」であって、
今までの自分のツーリングそのものではないことを、
はっきり意識する必要がありました。

自分のツーリングが変質してしまうことへの違和感もありました。

それでも動画を上げようと思ったのはどうしてか、
それは上手く説明できません。

ただ、動画をUPしてみると、
おそらく同年代のドイツのMOTOGUZZI乗りの方がコメント下さって、互いのチャンネルを行き来するようになったり、

 ☆YouTubeチャンネル、「Alteisentreiber
「Alteisentreiber」は、英語に直すと、「Scrap Driver(スクラップ・ドライバー)」
日本語では「ポンコツライダー」ってところでしょうか。

やはり同年代のアメリカはウェストバージニア州にお住いの、2021年型V7special乗り、
「IITY WYBMAD」さんが、コメント下ったり、
☆YouTubeチャンネル、「IITY WYBMAD

また、このブログを読んでくださる方が、コメントくださったりと、
やはりネットの向こうにいる「人」がイメージされるようになってきました。

やはり、「数」や「評価」のためだけには、動画をUPすることは難しい。
また動画表現そのものを突き詰めていくほどのストイックさも、
僕には欠けているようです。

それでも、誰かに向けて、その「誰か」をイメージしながら、
ツーリング動画を録り、発信していくことは、できそうでした。

動画毎に、届けたい先の人は違っている場合もあり、通底している相手もあり、
しかし、誰かに届けるようにと作っていくことが、
僕にとって、モチベーションになりそうです。


かつて、クリントイーストウッドは、アカデミー賞で4部門を受賞した「最後の西部劇」、『許されざる者』のエンドロールに、「セルジオとドンに捧ぐ」と記しました。

セルジオ・レオーネは、イーストウッドのマカロニウェスタン「荒野の用心棒」「続・夕日のガンマン」などを撮った監督。ドン・シーゲルは、彼が主演した「ダーティーハリー」の監督です。

二人とも、「許されざる者」公開前に死亡していましたが、イーストウッドは、おそらくは自分の今までの映画人生のすべてを賭けた「最後の西部劇」、「許されざる者」を、先達であり師である二人に向けて作ったのでしょう。

もちろん、イーストウッドが二人以外を視野に入れていなかったわけではありません。
アカデミー賞の審査員たち、アメリカの映画世界、そして世界中の観劇者たちに向けての切なく強烈なメッセージを込めています。

が、同時に、「許されざる者」は、セルジオとドンに捧げるために作られたからこそ、あのような作品になれたのです。


僕がツーリングの動画を上げることに、クリント・イーストウッドを持ち出すなど、おこがましさもはなはだしい話ではありますが、誰かに向けて作る、ということが、おそらくは孤独なモーターサイクルの旅を、孤独なままで人と繋げていく回路となっていくような気がしています。

そういうわけで、僕のめっちゃ下手くそな動画づくりは、これからも続くことになるでしょう。

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