道北の天塩町から稚内へ、日本海沿いを走る道道106号線は、サロベツ原野の中、人工物はその砂利道だけ、ガードレールも電線も、何もない、どこまでもばっすぐな道として有名だ。天気がいい時は海の向こうに利尻山が見える。
しかし、昭和の最後の頃、僕らライダーにとってのその道は、道道909号線という名前で、60km以上続くダート道で、本当に最果て感のある道だった。
今では北海道の日本海側の国道すべてをオロロンラインと呼ぶらしいが、僕らにとっては、天塩から稚内までの道道909のダート道こそがオロロンラインだった。
初めてその道を走った時の感動は、身体に残っている。
そもそも、そこまで来るのに今よりもずっと時間がかかっていた。札幌から海沿いを北上する道は狭く、トンネル内は濡れ、路面もよく波をかぶっては通行止めになっていた。
道の駅なんてものもなかった(道の駅が登場するのは1991年以降)。
北上するにしたがって変わっていく植生、寒さと風で高い木のない湿原と草原、低い灌木の荒涼とした風景。時折現れる街の低い屋根。
パンクの危険におびえ、ガス欠に備えて携行缶を積み、転倒に気をつけながら、時折ダートになる道を延々走り続けてやっとたどり着いた天塩の街。
そこから北上するダート道こそ、ライダーの憧れのオロロンラインなのだ。
1989年、僕は2年間だけ住んだ北海道を離れて、広島に移住。
広島で結婚、子どもが生まれ、1999年に北海道、十勝に再移住してきた。北海道で子育てをしたかった。
1999年から2004年3月まで十勝で暮したが、その間、バイクの走行距離は年1000kmも進んでいない。仕事と家庭、子育てに一生懸命で、バイクで走る時間はとれなかった。
その間も、北海道の「開発」は進む(「北海道沖縄開発局」という役所が国にあったのだ)。
2003年から稼働している、28基の風車。オトンルイ風力発電所の風景は、知らない間にオロロンラインのシンボルになっていた。
2004年4月、転勤で札幌に居を構える。
2012年、子どもが高校卒業。家から離れ、子育てが終わる。
2013年、17年間連れ添った相棒、GPZ1100と別れて、新しいバイク、MOTOGUZZI V7 Specialと走り始める。
この間、何度オロロンラインを走っただろうか。
おそらく10回を越えているだろう。
オロロンラインが「いつもの道」になれば、初めて走った時のあの「衝撃」はない。
最果ての、苦しい中でやっとたどり着いたあの道。その道は現在は快適な「北海道で人気の絶景道!」になった。
そう、だからこそ、60を過ぎた僕も今日、日帰りで走りに来られたのである。
この道を走る時に、かつての、本当に最果てに来てしまったという気持ちや、本当にこの先で稚内にたどり着くのだろうか、もしここで転倒したり、パンクしたりしたら、どうなってしまうんだ……という不安は、もうない。
ただ、身体の中を風が通り過ぎていくような、その感覚だけは、20代の時も、現在も、変わらずにある。
「また、この道を走りに来るだろう。」
初めてそう思ったのは、25の時だった。
この道を走るためだけに、ここまで旅をする意味がある。
日帰りでやってきた今日も、また思う。
「また、この道を走りに来るだろう。」
変わりゆく道、変わりゆく僕。
いつまで走れるかわからないが、またこの道を走りに来よう。(つづく)
一度北海道を愛車で走ってみたいと、当時の愛車スズキ・スイフトRSで北海道に来ました。
返信削除どこまでも続くオロロンラインを走った衝撃は、今でも忘れられません。
そして、この北海道ドライブで素敵なライダーさんに出会ったのを機に愛車を売って、リターンライダーになり4度北海道ツーリングをしました。
この北海道ドライブが無ければ、今頃バイクに乗ってなかった可能性が大きいですww