2024年3月9日

ライダーとジェンダー。


バイクに乗る人間は、自分のことをどう呼ぶだろうか。
「バイク乗り」
「ライダー」
「バイカー」
「モーターサイクリスト」
「単車乗り」
これは、その人がバイクに出会った時期、そして乗り出した頃に周りにいた人や、触れていた文化(雑誌、小説、漫画、映画、アニメなど)などによって、自分をどう認識するかがなんとなく変わっているように思う。
特にこだわりはない、という人もいるだろう。
職業柄「レーサー」と呼ぶ人もいるし、「隊員」という人もいる。
「運転手」と呼ぶ人は少ないようだが…。
バイクがまだ「男性的」乗り物と思われ、男性を主なターゲットにしていた頃、
例えば堀ひろ子氏が女性ライダーの道を大きく切り拓いた。
女性向けのバイクアパレルも作成、全日本ロードレースや鈴鹿4耐、サハラ砂漠横断など、ライダーとして「男性顔負けの」活躍をし、『ひろこの』という女性を主ターゲットにしたアパレルも立ち上げた。(『RIDERS CLUB』の永山氏がひろこののツナギを着ていた頃がある。)

峰不二子の革ジャンにハーレーの姿は、1971年の『ルパン三世』第1期アニメからお目見えしている。これは1968年の映画『あの胸にもういちど』(原題『La Motocyclette』)の主人公の女性レベッカが裸の素肌の上に黒いレザース―ツを来ていることからインスパイアされたものだ。

この頃は、一般的には「女性ライダー」と言われていた。
女性ライダーの歴史は、また改めていつか話すかもしれない。
堀ひろ子氏の後、シンボリックな位置を占めたのは三好礼子氏だと言えるだろう。
ほぼ同時期、ロードレース界では井形マリ選手がその道を開いて行った。女性同士のペアで鈴鹿8耐久24位完走等の華々しい実績を挙げ、また、1980年代半ばには『レディスバイク』誌が創刊され、女性ライダーの道標として、三好氏、井形氏は活躍していく。
80年代にバイクブームで女性ライダーが大幅に増えたこともあった。
また、80年代後半~90年代からバイク雑誌などを始めとしてメディアに登場する女性も増えた。
90年代を代表する一人として小林ゆき氏を上げることが出来るだろう。(小林氏は現在も活躍中だ)
おっと、また寄り道が長くなりそうだ。
大分端折ると、2000年代に国井律子氏が現れ、2010年代からは、さまざまな女性ライダー、「女性バイクタレント」が現れるようになり、現在に至る。

ここのところ、よく聞く言葉は「バイク女子」だ。
「すでにバイク女子も飽和して飽きられ始め、オワコンだ」という説もあるらしいが、
囃し立てるのも、貶めるのも、どちらもくだらない騒ぎ方だと思う。
流行っているか、バズるかにしか興味のない人たちは、その人たちで一喜一憂していれくれればいい。
もちろん、それで生計を立てようとしていた人たちにとってみれば大問題であろうが、そこで真剣にやろうとしている人たちを、傍から冷笑するような精神性には嫌悪感しか感じない。

…っと、また脱線だ。



例えば、「女性ライダー」と「バイク女子」では、どちらもバイクに乗る女性を指していることは変わらないが、イメージには違いがあるだろう。

「バイク男子」と言わないのが不思議だが、たぶん、この様々な文化のファッション化(それ自体に問題なしとはしないが、悪いことではない)の流れでは「バイク男子」も登場して来ているだろうし、若い人たちがバイクに乗っていけば、男性ライダーの中で「バイク男子」は増えていくだろうと思う。

そう、「バイク男子」と言えば、「バイク〈も〉乗っちゃうイケメン」だ。
バイクに乗っている時でも、基本の「イケメン」は外れない。
「バイク」は彼の魅力を引き立てる強力な「アイテム」だ。

同様に「バイク女子」と言えば、「バイクに乗ってる(若干でも)アイドル的女性」というイメージがまとわりつく。
バイク女子は「女子」であって、付加価値としてあるいは武器として「バイク」に乗っているというのがついている。だから、バイク女子で活躍しようとしている人たちはみな「フォトジェニック」であることを多かれ少なかれ要求されるか、またはそれを自覚して演出している。

男性向け脱毛やエステも市場が拡大し、誰でもが意見をとても気にする「ルッキズム」の急速な(そしてコマーシャリズムによる人為的な)広がりの中では、バイク女子だろうがバイク男子だろうが、そのルックスに囚われずに過ごすことは難しくなっている。

その点では、男女の垣根は取り払われてきているものの、そのルックスで強調されるのは、多様ではあるものの「性的な魅力」である。

確かに、
「バイクに乗る人間」という記号は、性的なものを助長させる側面がある。
車と違って、バイクの場合、走っている時には、常にライダーは全身が見られている。
そして人の限界を遥かに超える力を出す二輪車を御して走るその姿は、普通出来ないはずのことをしているのだから一般的には「かっこいい」印象になる。
そこに出るのは、巨大な力を制御する「大人性」と、無難を選ばない「冒険性」「危険性」の同居。特にそのスピードは命にかかわるものであるから、性的なものが付随しやすい傾向がある。

性的なものは、性と死の合間でその両方を感覚的に手繰り寄せるものだからだ。

それは、一つ間違えば死亡するスピードを剥き身で体感しながら、今、生きている、一瞬先、生き続けるために、高度に集中しているバイクの運転時の状態と、本質的に相通じている。


ライディングに性的な匂い(疾走中に鼻の奥にツンと来るような、きな臭い危険な香り)が結びつきやすいのは、宿命的なものだ。

だからこそ……というべきだろう。
「性」を軽んじたり、見下したり、ぞんざいに扱ったりしてはいけないように、
バイクライディングの中に潜む性的なもの、
あるいは、全身を剥き出しで走るライダーが纏わざるを得ないジェンダー的記号の現れ方に関して、我々大人は無自覚ではいけないし、ぞんざいに、あるいは下卑に扱ってはならないのだ。

同時に、性は、きわめて私的な、ひそやかなものであり、その実際の場面では、決して漂白された、お行儀のよい、きれいごとの世界ではない。
バイクライディングもまた、きれいごとや建前論、かび臭い説教だけでは、走っている本質に遥かに届かないだけでなく、実は危険ですらある。

バイクライディングやライダーのあり方についての話の難しさは、この点にある。
本当は、本能的に知っているはずのこと、
言葉にされず、教えることもできず、
しかし、生きている中で本物の経験を積み重ねていくうちに
徐々に学んでいくもの。
それこそが、ライダー論にとって最も大切なものなのだが、
それは、公の場では語りえない。

それを理解しあうには、一緒に走るしかないのだ。



VFR750F,XL600L: 片山敬済 Takazumi Katayama & 根本健 Ken Nemoto


XL600LM,XL600RM (1): 片山敬済 Takazumi Katayama & 根本健 Ken Nemoto

上に挙げた3つの動画は、以前から何回か紹介しているものだが、根本健氏と片山敬済氏が一緒に走っている動画で、一緒に走ることで理解する…ということの片鱗を見ることが出来る。(これも、1980年代のもので、オンボードカメラや道路脇に構えたカメラマン、ヘリの空撮などで撮られた、「演出」がかかったものではあるか、「片鱗」は感じることができる。)
ただ、本当には、一緒に走らなければわからない。擬似的に感じるだけだ。

しかし、この擬似的に感じたことを、実際の自分の走りの中で反芻し、繰り返し咀嚼して自分の身体感覚にしていくことで、やがて自分なりの理解へと持っていくことはできる。

話を戻そう。

「ライダー」や「バイカー」、「バイク乗り」について語るとき、そこにまとわりつくジェンダーを抜きにして語ることは難しいし、実は望ましくもない。
しかし、昨今の言説やネットTVの番組などでは、視聴者の好評を得るべく、やや過剰にジェンダー色を利用しようとする傾向がある。

宿命的に、それは不可避なことでもあるので、それに目くじらを立てることはないと思う。
しかし、そうしたライトなルッキズムとジェンダーの魅力に満ちたバイク文化の醸成は、命を乗せたバイクの上面をなでるだけのものになる危険性はいつもはらんでいる。

清濁合わせ呑んだ、実感としての本音のバイク文化を、
守り、継承しようと志すのであれば、
語ることはできないとしても、体現し、走りで表現しようとしていくことが、
走り続けてきたベテランライダーの仕事となるだろう。
それはすでに大きなメディアでは正面切ってはできない領域になってしまったのだから。

2 件のコメント:

  1. 樹生さん、こんばんは。
    人の数だけ道がある。とても自由なものなんだ、、
    なんて、「剣に焦ぐ」の一節なのですが、
    向き合いながら自分の居場所や精神性、
    走り続けてきたからこそ、すこしづつMCに呼応して今が有るかもですね。

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    1. 34se.selenさん、こんばんは。
      元々、「バイク乗り」を「こちら側」と呼んだりしてカテゴライズする思考は(ジョークを除いて)あまり好きではないのですが、最近、齢とともに、自分の年齢を自覚するだけでなく、ベテランとしての役割も自覚すべきかもしれないと思うようになってきました。
      積み重ねてきた年月による変化、その今ついても、話すべきかもしれないと…。
      いくら年月を重ねても、試行錯誤は続きますね。

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