2020年9月29日

「自由」と「自在」(1)

 「自由自在」という言葉がある。

辞書によると、「自分の思いのままにできるさま」(三省堂大辞林)、「思ったことが思った通りに出来ること。または、思う存分やりたいことをやること。「自由」と「自在」はどちらも、邪魔されることなく思い通りに出来るという意味。」(辞典オンライン四字熟語辞典)とある。

僕の考えるバイクライディングの目標はある意味、「自由」そして「自在」なのだが、それは、辞書的な意味とはどうやら少し違うようだ。

自分勝手な言葉の解釈というか、使いまわしになってしまうのだが、僕のバイクライディングにおける「自由」と「自在」について、少し話してみたい。

(今日は言葉だけ、御託だけの記事です)

僕は、何よりも自由が好きだ。
自由に憧れる。
「自由」という言葉が意味することを、みんなが共有することは難しい。
人の数だけ、自由の定義はあり、人の数だけ、自由の内実はある。
だから、一般的に自由とはどういうものか、万人にあてはまる自由とはどういうものか、
それは今は措いておく。

僕にとって自由の核たる意味は「何があっても自分のせい」ということだ。
【自】分に【由】来する、自分が理由である。
別の言い方をすれば、「何が起きても誰かのせいにしない。」
これが自由だ。
特にバイクライディングにおいて、それは言えると思う。
バイクは機械に過ぎない。
そしてバイクは物理法則を超えた動きは決してしない。
バイクが本来の動きをしないとき、バイクが思い通りに動かない時、
そこには何か理由がある。
整備不良も、運転中のミスも、油断も、せんじ詰めれば、自分に帰って来る。
もちろん、公道上で自分ではどうしようもないことも起こる。
それでも、それに対処できるのは、「今」、現在、ライダーである自分しかいない。
誰かのせいだといったところで、今ここの危険は去ってくれないのだ。
ときには、自分のおろかさや、無力さに打ちひしがされることもある。
それでも、その潔さがいい。
誰のせいでもない、自分の責任で、自分の意志で、自由に走っていく。
それが自由だ。

もうひとつの「自在」は、思い通りになるというこの語の本来の意味とは少し離れる。
僕の思うライディングの自在とは、
そこに【自】分が【在】ることだ。
乗せられているのではない。
なすすべもなく、ただなりゆきにゆだねているのではない。
どんな状況であれ、そこにライダーとしての自分が存在している状況。
そういう状況を創り出していく。
自分不在のライディングではなく、自分が確かに存在している。
バイクは機械に過ぎない。
しかし、速度が乗り、慣性が強く働いてくると、バイクは慣性に従って動こうとする。
例えばコーナリングで旋回に入ってしまうと、その状態から急に減速したり、コースを変えたりすることはとても難しくなる。
自分が作り出したはずの状況に、置いてきぼりにされ、自分には何もできないままに、バイクが走っていく。時にはセンターラインを越えそうになり、時にはガードレールに向かってて……。
あるいは、前方に障害物を見つけ、または、路面の陥没を見つけて、必死でブレーキングをするも、何もなしえない感覚のまま、バイクが進んでいく…。
バイクに乗っている以上、予想外の状況や、絶望的な状況がある瞬間に突然襲い掛かってくることはある。
時には自らスリップダウンを選ばなければならない状況に追い込まれることもあるし、
衝突が避けられない状況だとわかっても、ぶつかるその直前まで、全力で減速し続けれなければならないこともある。
そんな時でも、バイクの上で、ライダーである自分が存在していて、状況に対して、働きかけ続けている、どんな悪状況でも、ライダーの存在は消えない、消さない。
それが自在だ。

「自由」でありたい。
「自在」でありたい。

その感触を確かめたくて、
運転技術を磨き、鍛えていく。

(2)は、またいつか。

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