ケレーニイは、旅行者の基本的な態度を、ヘルメス型とゼウス型の二つに分けている。旅において日常の自己から離れ、別世界に投入しようとするのがヘルメス型、旅先でも常に日常生活の原則を守り、旅宿をもわが家にしてしまわねば気がすまないのがゼウス型、というわけである。(川村 二郎「書かれた旅17 旅の奥義はヘルメス型」)
もちろん旅ですから、その先の「絶景」とか、「食事」とか、「温泉」とかを求めて行くわけで、それは日常の生活の中では味わえないものなのですが、ちゃんと成功するだろう見通しがしっかり立っていて、いつものメンバーと連なり、お揃いのコスチュームで決め、お決まりの道の駅で声高に、賑やかに振る舞うバイクの団体さんを見ていると、時々、ああ、ゼウス型だなあ…と思うのです。
予定された楽しさ。保証された絶景。予約済みの美味。それを確認するかのようにたどって行く旅。
一緒に回る仲間がいて、いつでも話ができる。一人の不安に駆られなくてもすむ。
でも風景は初めて見るし、おいしい料理も初めて食べる。
どれもガイドブックに載っている、定番。外れのない名勝、名物。
そこに行ったと言えば、多くの人は羨ましがる。
まして、バイク仲間と、お気に入りのマシンとウェアで、かっこよく行ってきたのだから。
途中でちょっとスポーツライディング。
遅い車やバイクをぶち抜いて、華麗なライディングを見せつければ、また爽快感もひとしお。
休憩時間での互いのライディングの批評も楽しい。
お土産を買って、渡すときの気持ちよさも加えれば、ツーリングの愉しみは、実施前の計画期、実施当日、お土産やSNSでの交流の後日と、3倍気持ちいい。
ただ、景色やうまいもんを求めるのではなくて、特別なイベントがあれば、それは格別なものとなる。メーカーや雑誌のイベントもあるし、地元の祭りに参加するのもいい。プレミアムなアイテムをゲットできれば、ちょっと自慢だし、ここからまた交流が広がる…。
気の合う仲間と、いつだって、バイクで楽しい、第2の青春……。
こういうのが、「ゼウス型」のバイクライフだろうな…と、勝手に想像するのです。
川村二郎さんは、冒頭の文に続いて、次のように言います。
このように分けた所で、明確な線が引けるという保証はない。たとえば芭蕉が『おくのほそ道』の冒頭に記した「日々旅にして旅を栖)(すみか)とす」という言葉など、日常性への固執を排し一所不住の志を示したと見ればヘルメス型だが、旅を「日々」の常態にしてしまっている、つまりそういう形での日常に安住していると取ればゼウス型だともいえる。実際、芭蕉がその衣鉢を継いだ前代の旅人たちが、歌枕を訪ね、あらかじめ指定されている名所を目指して遍歴したのは、かねてから心に貯えていたイメージや知識を、行った先でたしかめただけのことで、別世界に赴いたとは到底いえないと考えればそれまでである。なるほど、『奥の細道』の松尾芭蕉さんも、ゼウス型とも見えるのですね。そう考えると、すべての旅は、やがてゼウス型へと収斂していくのかもしれません。
しかし、川村さんは続けてこう言います。
結局は、自分の現在の生活に何の疑問も抱かず、自信満々の態度でどこにでも踏み込んで平然としておられる剛の者を、旅人と呼べるかどうかである。ヘルメスは人間の魂を生から死の世界へ導く神、日本なら道祖神に当たる。「道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず」、歌枕をめざす雑踏は、生から死への旅にもなぞらえられ得るので、いずれにせよあだやおろそかなことであるはずはない。この部分だと、川村さんは、死を覚悟もし、安穏たる日常に安住できない芭蕉は、ゼウス型でなく、ヘルメス型だと言っているようですね。しかし、ヘルメス型もおだやかでないですね。どうやらヘルメス型の旅には、いつも少し死の匂いが忍び寄ろうとしているようです。
ゼウスは世界に遍在して到る所を自分の支配下におく神だから、円の威力にものを言わせて全世界を股にかける現代日本の旅行者にはふさわしい守護神だが、ケレーニイの考えでは、この神のもとでは旅の奥義は悟られないのである。
(川村 二郎「書かれた旅17 旅の奥義はヘルメス型」)
最近は中国の富裕層の人たちも、この流儀に入ってきたように思いますが、この文章はちょっと古いので、バブルの頃の日本をイメージして書かれた文章のようです。
現実には、ゼウス型の旅人だって、我を忘れるほど風景に感動することもあれば、ヘルメス型の旅人も、それなりに快適な旅になるように、事前リサーチはしっかりしているものでしょう。
純粋ゼウス、純粋ヘルメス、そんな旅はなく、どちらかに比重を掛けつつ、バランスをとっているのが一般の旅人というべきでしょう。
そして、バイクでの旅という点で言えば、1980年代頃までのバイク旅は、比較的ヘルメス色が強く、そして21世紀に入ったあと、特にここ数年のバイクムーブメントは、相当にゼウス型に寄ったものになってきているように思います。
これは、私たちの「消費者化」とリンクしているように思います。
お金を出せば偉いと思っている。客は店に対して優位だと信じて疑わない。
駅で客としてなら駅員に失礼な口をきいても、向こうに責任があるのだから当然だと信じている。
商行為は、売り手と買い手が合意した上に初めて成り立つものだということを忘れ、金を払う買い手が圧倒的に強いと信じ込んでいる。
そういうあり方が「消費者」としてのあり方。
バイクの世界にも、「消費者」としての文化が入り、大分浸透してきたように感じます。
それはそれで、OKです。好きな人はそうすればいい。
…というよりも、今やそちらの方が多数派になっているでしょう。
でも、僕は、あくまで個人的な好き好みの問題としていえば、あまりにゼウス的なバイクライフは嫌いです。
僕にとっては面白くない。
むしろ、僕は、あまりにゼウス的なものに囲まれてしまい、一時の幻想としてでもヘルメス的なものを味わおうとして、バイクで街や日常を逃げ出そうとしてきたのかもしれません。
先に芭蕉が言われたように、そうした「予定された脱出」もゼウス的だと言われれば、そうなのかもしれないのですが、だからと言って開き直ってげらげらと笑いながら旅先に自分たちの空間を持ち込むようなツーリングの仕方には、どうしてもなじめないし、好きになれないのでした。
純粋ゼウス、純粋ヘルメス、そんな旅はなく、どちらかに比重を掛けつつ、バランスをとっているのが一般の旅人というべきでしょう。
そして、バイクでの旅という点で言えば、1980年代頃までのバイク旅は、比較的ヘルメス色が強く、そして21世紀に入ったあと、特にここ数年のバイクムーブメントは、相当にゼウス型に寄ったものになってきているように思います。
これは、私たちの「消費者化」とリンクしているように思います。
お金を出せば偉いと思っている。客は店に対して優位だと信じて疑わない。
駅で客としてなら駅員に失礼な口をきいても、向こうに責任があるのだから当然だと信じている。
商行為は、売り手と買い手が合意した上に初めて成り立つものだということを忘れ、金を払う買い手が圧倒的に強いと信じ込んでいる。
そういうあり方が「消費者」としてのあり方。
バイクの世界にも、「消費者」としての文化が入り、大分浸透してきたように感じます。
それはそれで、OKです。好きな人はそうすればいい。
…というよりも、今やそちらの方が多数派になっているでしょう。
でも、僕は、あくまで個人的な好き好みの問題としていえば、あまりにゼウス的なバイクライフは嫌いです。
僕にとっては面白くない。
むしろ、僕は、あまりにゼウス的なものに囲まれてしまい、一時の幻想としてでもヘルメス的なものを味わおうとして、バイクで街や日常を逃げ出そうとしてきたのかもしれません。
先に芭蕉が言われたように、そうした「予定された脱出」もゼウス的だと言われれば、そうなのかもしれないのですが、だからと言って開き直ってげらげらと笑いながら旅先に自分たちの空間を持ち込むようなツーリングの仕方には、どうしてもなじめないし、好きになれないのでした。
「所詮、偽ヘルメスだろう」
そういうそしりを受けるとしても、そうとしかありえない、旅への思いがあり、バイクへの思いがある。
それを忘れたレジャーとしてのバイクライフには、どうしても与しえない、そんな感覚を強く持っているのです。
忘れたくない、ライダー気質。
ブログのラベルに、この記事から「ライダー気質」を加えました。
ゼウス型のバイクライフが充実し、豊かに花開いていることは知っています。それを前提として、僕の育ったライダー文化、そしていまだに捨てきれない、ライダー気質についても、ときおり話していきたいと思います。
そういうそしりを受けるとしても、そうとしかありえない、旅への思いがあり、バイクへの思いがある。
それを忘れたレジャーとしてのバイクライフには、どうしても与しえない、そんな感覚を強く持っているのです。
忘れたくない、ライダー気質。
ブログのラベルに、この記事から「ライダー気質」を加えました。
ゼウス型のバイクライフが充実し、豊かに花開いていることは知っています。それを前提として、僕の育ったライダー文化、そしていまだに捨てきれない、ライダー気質についても、ときおり話していきたいと思います。
うーん、難しいですね。確かに旅の計画が緻密
返信削除だとゼウス型に成ります。でも面白く無いですね。
樹生さんの言われる通り、ヘルメス型を志向する
事も重要だと思います。
自分の場合は、シンプルな欲で走り出します。
途中はなりゆきで計画しません。
道東にソロツーリングに行った時も宿だけ決め
風連湖に行きたいと思っただけでした。
せめてバイク旅くらいは自由に勝手気ままに
走りたい。 と、思うのですが……。
いちさん、こんにちは。
削除これは微妙な話題でした。コメントしずらい書き方ですみません。ありがとうございます。
表現が難しくて、言いたいことがうまく言えてない感はいつもあります。なんというか、精神性の問題なんですが、川村さんの言葉で言えば、「結局は、自分の現在の生活に何の疑問も抱かず、自信満々の態度でどこにでも踏み込んで平然としておられる剛の者を、旅人と呼べるか」ということになると思います。
自由とは、本当に難しいものだと思います。
こんにちは。
返信削除私は2年前にリターンした実質初心者ですが、
その前も今もほとんど日帰りのソロツーリングです。
行先はだいたい決めますが、
最小限の紙の地図を頼りにほとんど走りっぱなしです。
食事も行き当たりばったり。写真すらまず撮りません。
旅と言うより、むちろ修行してるみたいな。
そして途中の道の駅などで見かける
バイク集団の方々は近寄りがたくて、
休憩するつもりがつい素通りしてしまったりします。
バイクを買ったショップにもツーリングに誘われますが、
「公道を大人数で」に抵抗を感じて
未だに参加できずにいます。
すみません。だからどうしたって話ですね。
つい書いてしましました。スルーしてください。
モリシーさん、こんにちは。
返信削除コメントありがとうございます。
私も、走りっぱなしだったり、修行みたいに走ったり、バイク集団の方々が苦手だったりします。
ショップ主催、10台以上の大人数のツーリングは2回だけ、参加したことがありますが、そのショップのカラーのせいでしょうか、おだやかで、でも走りのシーンはとってあり、自由走部分と編隊走部分に別れ、信号で途切れてもいいように、数台ごとにリーダーを配し、駐車も邪魔にならないように、マナーもよく、非常に気持ちのいいツーリングでした。
でも、そうでない集団ツーリングも日頃よく目にしますね。
結局は人の問題だと言ってしまえばそれまでですが、自分と波長の合いそうな人たちか、それが大切なポイントだと思います。
と、いいつつ、私の場合一人で走るのが基本だというのは揺るがないのですが…。
今年やってみたいのは「耐久」みたいな弾丸ツーリングです。(…やれやれ)