2016年6月4日

法と安全と意識。

樹生さん、質問のはがきが来てますよ。

「はがき」ですか?このご時世に、これ、ブログの記事ですよ。

まあ、細かいことは言わないことにして…。
「樹生さんこんにちは。…」


こんにちは。

「前回の当丸峠の記事でV7のメーターが写真に写っていますが、前後に車がいないのに時速が60km/hですよね。以前の高速道路の写真も時速は100km/hでした。樹生さんはいつも法定速度を守って運転しているんですか?」

質問の方は何歳ですか?

13歳の方です。

13歳の方にも読んでいただいたのですね、感謝します。ご質問、ありがとうございます。
はい、いつも法定速度を守っています。もちろん、法定速度だけではなくて、周囲の交通状況や路面状況にも気を付けて運転しています。


あ、樹生さんすみません。52歳のライダー歴30年の方でした。

……。あ、そうですか…。
いつも例外なく法定速度を守ることを優先しているわけないじゃないですか。
出すときは出します。出さないときは出しません。

あれ、樹生さん、答えを相手によって変えるなんて、汚いですね。

汚くて結構です。
それが大人というものです。

何割り切ってくれてるんですか、樹生さんは違法行為を推奨するんですか?

そんなことはないです。私の答えをちゃんと聞いてください。
「いつも例外なく法定速度を守ることを優先しているわけない」と言ったのであって、基本的に法は尊重すべきだと考えています。

じゃ、なんですか。「出すときは出します。出さないときは出しません。」って。

ちょっと、たとえ話をさせてください。
このたとえ話は前のブログでもしたので、二回目なのですが…。
片側1車線。往復2車線の一本道に横断歩道があり、押しボタン式の信号機があります。
道は左右とも400mくらい見通せ、その先は緩いカーブになっています。
今、左右に車の姿が一台もなく、私一人が横断歩道のこちら側に立っていて、向こう側に渡ろうと思っています。私の体調はばっちり。天気は晴れ。
押しボタン信号機を押すと、5秒後に車道側の信号機が黄色に変わり、その後、赤になって、その後、歩行者用信号機が青に。青の時間は30秒程度でその後点滅が10秒。点滅が終わって歩行者用信号が赤になってから7秒後に車道側の信号機が青になります。
このとき、僕は、左右の安全を十分に確認の後、、車の姿が一台も見えす、遠くから高速で迫るようなけたたましい音も聞こえていなければ、信号機のボタンを押さず、歩行者用の信号が赤のまま横断歩道を横断します。

ちょ、ちょっと待ってください樹生さん。それ、違法行為です。

はい。そうなりますね、だから、摘発されたら、甘んじて受けます。
しかし、話をもう少し聞いてください。

なんですか?

もしも、同じように左右に車の影がなく、道路の向かい側に小学生が一人立っていたら、あるいはこちら側でも、私の姿が見える位置に子どもがいたら、私は信号機を押して、青になってから渡ります。

…はあ。

一人の時に信号機を押さないのは、自分の横断の安全はその場合、確保できると確信できるからです。かつ、信号機を押すと、約1分間弱にわたって車道側の信号が赤になります。その間に車が来たら、私が渡り終えているにも関わらず、その車は信号に従って停止し、また青で発進しなければなりません。
それは無駄です。

…いや、それが法というものではないですか。

いや、その法は何のためにあるのか、の方が大事でしょう。
子どもが見えている場合に私がそれをせず、かならず信号機を押すのは、そうした判断がまだできない子どもには安全のためにも、どんな場合でも歩行者用信号機がある時にはボタンを押して青になるのを待ち、車がいないか、またはいた場合、止まってくれたかを確認してから渡れと言った方が安全を確保できると考えるからです。
大人は子どもに対してはそうした行動のモデルでなければなりません。
だから、車を無駄に止めることになっても、ボタンは押します。
それが大人としての責任というものです。それが法になっていようと、いまいと、子どもたちを守り、育てようとする姿勢があること、それが大人の条件だと思います。

…はあ、そうですかねぇ…。

でも、だれもいないなら、さっさと渡ってしまいます。

え、だからそれはいいのですか?

原動機付自転車の法定最高速度は時速30km/hです。しかし、日本の市街地の混雑した道路状況において、あらゆる場合に時速30km/hを守って走るのは、馬鹿者です。
安全のために時速40kmとか、45kmを出した方がいい瞬間もあります。

それはそうかもしれませんが…。

道路交通法は、人の安全を守るためにあります。
人はあらゆる場合に独自に正しい判断をできるとは限りませんし、多くの人が同時に走っている公道でみなが同じ判断を下すということはあまり期待できません。
だから、誰でも共通にルールを順守することで、互いの安全、命、権利を守るというのが道路交通法であり、その法を守るということです。

それはそうですね。

だから、法は尊重し、遵守しなければなりません。
これは大前提です。

そうですね。

しかし、法を守るとは、どんな場合でも状況を見ずに杓子定規に法の通りにしか行動しないことを指しているのではないのです。
そもそも安全、命、権利を守るための法なのですから、その発想の方が優先です。
法を機械的なマニュアル扱いして、法さえ守っていれば、あとは周りがどうだろうが知らないという姿勢では、自分の安全も相手の安全も守れません。
公道はそんなに甘い場所ではない。
文字通り、サバイバル、生き残らねばならない場所なのです。

じゃあ、事故したらもう何も言えないですか?

いえ、どんなに気を付けていても事故に遭うことはあります。
それから、人はミスをするものです。必ず。そのタイミングによって、事故になる場合と、事故にならずに済む場合があります。
事故したら何も言えないという発想自体、硬直した考えだと思います。ひとはミスをする、失敗もする、それをしないために、話をしていくべきです。

でも、そこからスピードを出してもいいという話にはならないでしょう?

なりませんね。
でもね、必要か、不必要かという話で行くなら、趣味でバイクなんて、不必要だということになってしまいます。
私にとってどんなに必要でも、理屈でいったら不必要になるんです。
でも、本当に必要なものって、そういうものの中にもあるんじゃないでしょうか。

たとえば?

たとえば、音楽、たとえば、絵画、たとえば、小説や詩、たとえば、演劇…。それらは、食糧や衣服や住宅ではないし、水道や電気でもない。でも。生きるためには必須なものとして認知されています。
私にとってバイクで走ることは、音楽と同じくらいに生きるために必要です。

それは何のために?

生きていることを、心の底から楽しいと感じるためです。
生きることを心の底から楽しまなければ、そういう瞬間がないと、人は生きていけないものです。
バイクで走ること、自分の足での走りや、自転車の走りよりも圧倒的に速く走ること、その体験は、すでに私にとって必要なものになっています。
だから、それが他の人の生きることを極力邪魔しないように、気を付けつつ、私はバイクで走ることを楽しむつもりです。
絶対に人に迷惑を掛けないで生きることなんて、誰にもできません。
お互いに、他人の生きる喜びにも寛容になりつつ、自分の生きる喜びを発露させていくんです。
あまりに他人に迷惑をかけてしまうようなら、その自分の喜びは許されないものになります。
そうなったら、その喜びは手放さなければなりません。どんなに大切でも。
そうならないように、他人に極力迷惑をかけないように心遣いながら、楽しむ。
そして、互いに、相手の心からの楽しみが、人を気遣いながらのものであれば、ある程度は許容しあう、それが大人の社会だと、私は思っています。

…「程度」が難しいですよね。

本当にそうですね。すべて一概には括れないものだと思います。
その都度、考えていくしかないのだと思うんです。
たとえば公園でバイオリンの練習をするご老人。
たとえば、近所の幼稚園の運動会の練習の音。
たとえば、夏の夜の町内会の盆踊りのスピ―カーの音。
そして、公道を使った、ツーリングという、バイクでのレジャー。
どこで何をどの程度するか、その見極め、そのたしなみ、すべてに人間性が現れます。
バイクを愛する者は、バイクで幸せになるべきです。
そのためには、守るべき命があり、まもるべきマナーがあり、守るべき法もある。そのことを忘れてはならない。
そういうことだと、考えているんです。

はっきりとしてませんが…。

そういうものだと思います。
少子化が進むと年金制度や介護保険が破たんするから、若者は恋をして、子どもを産み、育てよ、と言われて、それで恋ができるというものではないでしょう。
ほんとうは逆さまなんです。
人を愛する素晴らしさ、喜びを、大人がもっと示し、安心して子そだてができる状況や、希望が持てる状況を作る方がずっと大事です。
交通法をただ額面通り、杓子定規にふりまわすよりも、安全のこと、命のこと、生きる喜びのことを語る方が、ずっとずっと大事なんです。
その前提の上に立って、はじめて、法の大切さ、遵法精神の尊さについて話が始まるのだと、僕は思っています。

2 件のコメント:

  1. 最後の段落はそのとおりですね。いまの若い子(新入社員)と接していて、(全員ではありませんが)そう思います。
    ある子は何故だか冷めた感じ。またある子は物の程度や「一般的な」常識の度合いがわからない。それから、妙に慎重に慎重を重ねる子も居ます。これらは主に男子。
    親と・・・父親と遊んだり話したりして来なかったのかな?と、この記事を読ませて頂き、ふと感じました。

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    1. tkjさん、コメントしずらい記事だったと思います。ありがとうございます。
      なんでもかんでも「説明責任」ということになってしまって、説明がつけばそれでいいのか、とも思いますし、もっと真実というものは微妙で繊細で、よくわからないもので、だからこそ、人はきちんと学ばなければならないのではないと思うのですが、最近のネットやマスコミの言説には裏も表もない分、身も蓋もなく、含みや深さもなくなってきている感じがします。そして、私たちの日常の言語生活も、平板なものになってきているように思います。
      相手のことを考えつつものびのびと楽しむ、そういうあり方を、もっと示さねばならないように思うのです。
      よく「ゆとり」とかいいますが、この世代傾向は、学校の「ゆとり教育」のカリキュラムとはおそらく関係なく、もっと大きな社会のあり方の変化からきていると思うのです。「ゆとり」と呼ぶことで、大人たちは社会人としての責任から逃げ出して、ただ批判する側へ回っているように思います。
      だから、バイクでひそかに、迷惑かからないようにやんちゃすることも、それをひそやかに話すことも、「わきまえ」を踏まえたうえでとても大事なことなんだと思います。

      「大人」のあり方は、「たてまえ」でできている学校では教育できない。大人を教えられるのは、大人だけだと思います。
      我々の仕事ですね。(^^;)

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