2019年6月21日

ルールと本質。

先日、職場の防災訓練がありまして、消防署の指導を受けたのですが、その隊長さんが講話で話したことに、「おはしも」と「ルールと本質」の話がありました。

「おはしも」とは、よくある語呂合わせの頭言葉を合わせたもので
(例のネンオシャチエブクトウバシメみたいな)

 お=押さない
 は=走らない
 し=しゃべらない
 も=戻らない

ということだそうで、これは幼稚園から大人の職場まで共通に話す話だということでした。
我が職場は、私の眼からみて、あまり防災意識が高いとは思えず、訓練もちょっとおざなり気味だと思っていたのですが、隊長さんは、特にけなしもせず、当たり障りのない誉め言葉をくださいました。
そのあとで、おまけのように話したことが記憶に残っています。

『みなさん、〈おはしも〉とは言っても、走るべき時は走らなきゃだめですよ。しゃべるべき時もそうです。
幼稚園や小学校の低学年までは、〈おはしも〉は必ず守りましょうねと話すのですが、皆さんは大人なんですから、本質を理解して、的確に判断して行動してください。そして、もし子供や、年少の方、判断ができない方がいたら、導いてあげてください。』

『本質は、命を守ること、危険から逃げること、安全を確保することです。階段で人が渋滞しているときに上から押したらダメです。前が人で詰まってるのに、自分(たち)だけダダダダッと走ったら危ないです。でも、前が空いていて、足元がいいなら、走って逃げた方がいい時もあります。 ルールや教条は、本質を実現するため、守るために手段としてあるだけです。本質を理解し、その場その場で、的確な判断をしてください。それが大人の仕事です。』

何度も例に出していますが、原付の法定制限時速が30km/hだからといって、いかなる場合でも時速30km/h以下でしか走行しないのは、かえって危険です。混雑している市街地の大通で駐車している車の右を通り抜けるとき、後ろから迫る大型車をかわしつつ、左車線に戻るとき、安全のために30km/hを越えることはあります。

どこまでが安全で、どこからが危険か。
それは、簡単に判断の着く問題ではありませんし、すべてケースバイケース。
一概には述べられないらものです。

私は傍若無人に危険走行を延々と行うバイク集団の走りを肯定する気はさらさらありません。
しかしまた、法規さえ守っていればこちらが正しいのだと、そこで思考停止して相手が悪いの一辺倒でそれ以上の安全への思考を停めることにもまた、与するわけには行きません。

我々は法を守ることによって法に守られていますが、法さえ守っていれば、ただ悪い奴を責めていればいいというほど、現実は甘くはないのです。

安全のプロである消防署の救急隊の隊長さんから本質とルールの話を聞いて、
改めて、命と、安全と、
そして自分の判断力にも驕ることをしないように、
正しさの上にあぐらをかいて油断するのみならず、他人を責めて悦にいるような下卑た人間にならないように、
気を引き締めていこうと思いました。
それは、私にとって難しいことですけれども、そうしなければならないと思いました。

モーターサイクルは、人の命を乗せて走っています。
そして、ライダーには、自分のみならず、周囲の人の命にも責任があります。

その責任を背負うことを、誇りと思うのがライダーです。
生きる喜びを知らないものに誇りはありません。
機械のようにただ法規を守っていることだけで満足する心には
本当の安全は、導き得ない。

走る歓びと、安全とは、一見対立するようにも見え、
また、矛盾、対立する場合も多々あるのですが、
その本質部分では、それらは一つです。

法規を守ることで思考を停止してしまっては、本当の安全には遠く届かず、
自分の命も人の命も守れはしない。

走りの喜びを、単に自己顕示欲の空しい垂れ流しに帰しては、
むしろバイクは危険なだけになる。

ライダーは、
走る歓びと、安全の責任を、
その、一見矛盾する本質を、そのまま引き受け、
自らの存在の誇りをかけて、その都度その都度、
自分の行動、走りを、創造していきます。

これはとても難しいミッション。
その困難なミッションを自らの義務として引き受ける
その誇り高き精神を、我々は「ライダー」と呼ぶのです。

ライダーに誇りあれ。

ライダーに誇りあるとき、
ライダーは危険を遠ざけ、安全の創造に近づけるのです。

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