仕事の合間、隙間時間を縫って、彼の書いた、
『誘動論 柳田国男と山人』(文春文庫 2014年1月)を読んでいる。
定住する民の他に、定住せず、「遊動」する民がいた。
日本では、それは平地に定住する農耕民が陣取ることによって、山へと追いやられ、「山人」となった。
彼らは、狩猟採集をしながら移動する民であるから、富の蓄積をしない。
獲物は、みんなで平等に分ける。
富と権力の不平等が生じない共同体社会。
それが、「日本」という「国家」が生まれる前の日本にあった。
簡単にまとめると、そういうことが書いてある本だ。
遊動民。
遊動する民。
定住を好まない民。
そういう意味でよく言われるのが「ノマド」。遊牧民だが、柄谷は遊動民と遊牧民は分けて考える。
このことはとても重要なのだが、今は置いておこう。
「定住を好まない」
僕の中に、そういう要素が確かにある。
どこかへ行きたくなる。それも、ただ出かけるのではない。
ここから離れたい。どこかへ向かって移動していたい。
そんな気持ちが、10代の頃からずっとある。
どんなに居心地がよくても、同じところに長くいたくないのだ。
遠くへ行ってしまいたくなる。消えてしまいたくなる。
そんな衝動を、心のどこかに、ずっと抱えて生きてきた。
秋田の片田舎で育った時も、休みの日には自転車で遠出していた。
目的地などなくても、とにかく遠くへ走っていたかった。一日中、走っていたかった。
大学に入り、100万人を超える人口の都市に住んで、しばらくしてバイクを知り、自転車からバイクに乗り換えたのも、自転車よりも早く、この都市を脱出できるバイクという乗り物に、魅了されたからだと思う。
自動車には全く興味がわかなかった。車酔いが激しいことが第一の原因でもあったが、自動車の「室内」が、同じ空間として、若い僕には息苦しかったのだろう。
僕の中に、遊動民の血が流れているのだろうか。
それとも、後天的なものか。
すぐに「何々のDNA」と言ってしまうことにも、少し抵抗はあるが、先天的なものにせよ、後天的なものにせよ、僕の中に、遊動したい気持ちは、いつも、ずっとあることは確かなようだ。
これは、自分でもどうしようもない。
定職に就き、結婚し、家も建てて定住している今でさえ、どこかへ行ってしまいたい気持ちは、完全には消せないでいる。
子育ての期間、育児をする父として生きた期間。
それはそれで、かけがえのない幸福感を僕に与えてくれた。
でも、どんなに幸福でも、旅への思いが完全に消えることはなかった。
比較的短い期間で転勤を繰り返しているのも、たぶん、僕のさすらうことへの希求がなせる業だ。
どんなに居心地がよくても、同じ繰り返しに耐えられない。
仕事に同じ繰り返しなどあり得ないのに、次に行ってしまいたくなる。
僕は遊動の民の末裔なのだろうか。
それとも、単にセンチメンタルな性状を持つ奴なのか。
そんなことを、ふと、考えてしまった。
明日も午後は仕事だ。
樹生さん おはようございます。
返信削除昨日は偶然とはいえ楽しかったでした。
なんどもバイク縁でお話して感じるのは、
移動の道具やその利用方法、シーンには
これほど深く追求しながら、他はわりと
あっさりすぎるほどこだわりなしで、
やっぱり旅がお好きなんだと思います。
それをしないと、どうも自分の居所が悪いとか
心身が詰まってくるとか、そんな感じです。
お仕事があまりに時間を浸食しているのも
心身をデリケートしている要因かなあと
外からみただけですが、そう感じました。
働き盛り、分別盛りの年齢が高くなる日本ですが、
体力の低下年齢はかわらないので、それだけ
無理をしているというところです。
積極的に休むことで得るところもあります。
暑さもさりよい季節になりますので、
ぜひ時間をつくって”旅走り”にお出かけください~
kaoriさん、こんにちは。
削除昨日はありがとうございました。
とても楽しいひと時でした。
僕は服もいい加減だし、グルメ趣味もまったくなく(味覚がにぶいのかも)、
本当に旅というか、漂泊していたい…という思い以外は、どうでもいいというか、
そんな部分もあるような気がします。
とにかく、移動してないと、空を見上げてないと、身体や心がおかしくなってきて健康を保てないのは、
もう、高校生の頃から、ずっと変わっていない私の性質です。
旅をしないと窒息する、そんな感じが、本当にするんです。我ながら、困ったものですが、これは自分でもどうしようもありません。
あと2週間頑張って、8月末か9月の頭には一度ツーリングに出られるようにしたいと思っています。
さすがに限界が近づいてきた…そんな感じのこの頃です。
kaoriさん、お心づかい、ありがとうございます。