2018年6月14日

遠くへ。9 「移動」について

「遠くへ。」
それが今回の旅のテーマ。
旅と言っても、午前5時から午後4時まで、11時間の限られた時間。
予算も限られ、ガソリン代込みで(当日給油分のみだが)5000円以内。高速道路は乗れない。
なんとなく思ったのは、三国峠に行きたいということ。そして三国まで行ったのなら、日勝峠を越えて帰ろうということ。
走行距離は約600km。
本州で下道のみ11時間で600kmと言えば、まず不可能なプランだ。
北海道の早朝発なら可能。もちろん、無事故、無違反で走らなければならない。

ある意味でそれはチャレンジングだった。
もう一つ条件があり、それは、翌日の仕事に支障をきたさないこと。つまり、疲労しすぎずに帰還することだった。



こうした条件で走っていくとなると、それは、休憩も体をほぐし、トイレにより、水分と栄養補給のみという、味気ないものになる。
それに、写真を撮ることくらいだ。


写真を撮ることと、止まって風景を眺めることは、カメラを持たなかった昔は、完全に切れていた…あたりまえである。
カメラを持つようになってからは、止まって風景を眺めたり、散歩したりするときに、記録のためというか、記憶に残すために、ちょっと写真も撮るようになった。
写真を自分のためだけでなく、公開するようになったのは、2007年にブログを始めてからで、この後からは、止まるときに純粋にきれいだから…というだけでなく、ブログに載せることも意識しだしたように思う。
僕はツイッターもフェイスブックもインスタグラムもやらないが、ブログに書くことと、バイクに乗ることとがかなり濃密に結びつくようになったのが、2007年からだった。

風景も、誰かに見せることを意識して、写真に収めるようになった。
それはバイク旅の楽しさを広げるものではあったが、純粋さという観点から言えば、別の要素が入り込んでしまったのかもしれない。



おっと、脱線している。

こうしたプランで、遠くまで、一気に走ろうとすると、ひとり耐久レースみたいになり、休憩はピットインみたいになってくる。時間を気にして、ペースを考え、少し遅れ気味とか、少しかせいだから余裕があるとか、早く休憩して疲れを溜めないようにしようとか、やたら考えながら走ることになる。
それは、無心で気ままに走るのとは違うツーリングだ。
しかしこれは、これで楽しい。

常に全体をモニターしながら、再プランしながら進んでいくのは、たぶん登山にも似ていると思う。

登山においても、現在位置、目的地との距離、天候、この先の天気の予想、自分の体調等、常に考えながら進まねばならない。気を抜いたら、遭難することもあるのが、本当は登山。いくら登山がレジャー化しても、それはいつも忘れてはならない。
人里を離れて、見知らぬ山に入るということは、そういう危険の中に身を置くということなのだ。

バイクツーリングの楽しみは、解放の楽しみでもあるが、お気楽なものではない。
そもそも、跳ねれば人を殺してしまうような質量と速度の乗り物に乗って走っていくのだ。気を抜いていいはずがないのだ。

ただ、自分でも思うのだが、もっと風景を中心にした走りや、もっと、走りそのものをテーマにした走りや、なにかを見に行くとか、食べに行くとか、ゆっくりした休憩を楽しむツーリングもいい。というか、そうしなくてはへとへとになってしまい、いつまでも走り続けられなくなる。

それでも、
若い頃、僕のツーリングのほとんどは、この「遠くへ行く」一人耐久選手権パターンであり、その中に一番の充実感や、ライブ感を感じてきたような気がする。

今回、久しぶりにそのパターンで走ってみたのだが、感じたことは3つあった。

ひとつは、遠くへ行って、帰ってくることを中心に据えると、途中が、というか、殆どすべての行程が「移動」区間になってしまう、ということだ。
それは距離が遠くなるほどそうなる。

例えば、昔、広島から夜出て、朝に阿蘇に着き、昼過ぎまで熊本を中心に走り周り、午後から高速に乗って広島まで帰って来るなんてツーリングを年に1回くらいしていたが、これは阿蘇広島間の往復はひたすら時計と距離計をにらみながら高速道を走り続けるという、苦行の移動区間と言えるものだった。
むろん、その連続高速巡行にも楽しみはある。でも、あまり変化はない。刻々と変わる気候や時間、自分の疲労度等をモニターし、ペースを考えながらいかに体力を温存していくかに気を砕く、耐久レースをするというより、耐久レースをテレビで延々見ているみたいな、そんな状態に近いものだった。

今回も、行き、帰りともに、アバウトに決めた行先と大体読んでいた距離、カンと経験でこの時刻にこのあたりだとうまくいくだろうという読み……。
そんなものをペースノートに、ただ走っていった感が強い。
そして、やはり日帰り600kmの中には、延々ただ距離を稼ぐだけの走りになってしまうこともかなり出てきた。

帰路、最後にいろいろ道を外して走ったのは、そうした「移動」、特に何回も通っている道では、集中力が落ちてきてかえって危険になると思ったからで、それでも大きくルートを外さなかったのは、全体としての残存体力や時間、道の混みだす時刻などを考えると、あまり寄り道はしていられないからだった。

僕がよく走ることの多い定番ルートは、まず距離が300kmから長くても400kmくらいで、ゆきかぜ号なら朝満タンで出発すれば給油なしで帰ってこられることも多い道であり、かつ、その中に走りの楽しい道を必ず配して…というよりもそういう道をできるだけつないでルートにしているので、走りそのものを楽しみ余裕もあり、距離も短いので余裕もあっていろいろ楽しめたり、ペースを変えることもできる。

しかし、日帰り条件付きの「遠くへ」は、そのポイントがピンポイントであるほどに、最短距離、または最速ルートを、ただ往復することになっていきやすい。
そういう場合、道はたいてい一本道になり、メイン国道を行かざるを得なくなることも多い。

そうなると、これは「移動」中心の走りになるのだ。

「移動」ですら「楽しい」。
それが、バイクの最大の魅力のひとつだと思う。

確かに楽しい。
だが、それが何時間も延々と続くと苦しくなってくる。
ポジションからくる疲れ、
ずっと見続ける目を襲う「眼精疲労」。
そして肩凝りや腰痛、お尻の痛み、手の痛みなどが襲ってきたら、
もう巡行すること自体苦行のようになり、危険ですらあるようになるのだ。


このバランスが難しいのだと、今回、三国峠を目指して走ってみて、改めて思ったのだった。

感じたことの二つ目は、若かったころに比べて、このツーリング中の疲労や痛みを感じることが、齢とともに減ってきていることだった。
以前はよく長時間走っていると、耐えがたい肩の痛みに、走行が難しくなることさえもあった。眠くて眠くて、危険を感じたことも、若いことはよくよくあった。

そういえば、最近、走っていて眠気が来て危ないことって、ほぼない。
また、耐えがたいほどの肩凝りや腰の痛みも、全然襲ってこないわけではないのだが、以前に比べると大幅に減っている。年に1,2回、感じるかどうかというくらいなのだ。

これはきっと、走り方の変化や、休憩の入れ方、そこでの食事の仕方、運動(体操)の穫り入れ方など、トータルでの自分の管理(トリートメント)が以前よりも耐久ツーリングに適したものになってきているからだろう。

体力は目に見えて落ちてきている。
もう体力勝負で走っていくようなことはできない。
でも、工夫次第で、もっと快適に、もっと遠くまでは行けるのかもしれない。

そう思った。


3つめ。

ゆきかぜ、MOTOGUZZI V7Special(2012)は、「移動」には向いていない。
誤解を招くような言い方になってしまったが、移動に使えないわけではない。
2013年から走っていて、何度かこうした遠くまで走りをしているが、非常によく使える。

ただ、ゆきかぜは、移動でなく、胸躍る走りが好きなのだ。
この辺りは、ドゥカティでなくても、アグスタでなくても、ビモータでなくても、やはりイタリアンというべきだろうか。

ゆきかぜはアクセル操作へのレスポンスがとてもいい。
少し開ければふわりと、
強く開ければ、力強く、
エンジンが反応し、車体が反応して加速する。
このダイレクト感が走っていてたまらなく気持ちいいのだが、
同時にこのエンジンと車体は、旅の黒子にはならない。
いつも心にバイクの存在を意識させる。

たぶんそのコンセプトの違いがBMWとの違いなのだ。
必要なら黒子に徹して、一日千キロを3日間でも、平気で走らせてしまう、BMW。

よく言われる例えに、
BMWと行く旅は気の合った女房と行く旅。
ドカティと行く旅はとびきりの恋人と行く旅。
というのが、会ったように思うが、
モトグッツィと行く旅は、さしずめ、恋女房と行く旅というところか。

分かっているようで、分からないところがあり、
全く空気のように意識しないこともなく、しかし、
ひりひりするようなときめきを感じることもない。

走りも楽しむコースを中心に、未知のワインディングも走りに行く…なんてのが最高のパターンなのかもしれない。

この遠くまで走ってあとはひたすら移動…というパターンでは、黒子に徹してくれないゆきかぜについついアクセルを開けてみたり、変化のある走りをしてしまったりして、またはしたくなってきて、退屈な巡行そのものを、そのまま静かに豊かにしていくような、そんな影のような存在としての働きには、やはりモトグッツィは向いているわけではないのだなぁ…と、思ったのだった。

そういうシーンで最強なのはBMWだろうが、国産のツインなら、カワサキのW800もいい線いっていると思うし、国産直4マシンは、そういうところでは影になり、走りのステージでは咆哮をあげるという、相当に守備範囲の広いものだったのだと、改めて思ったのだった。


まあ、それを言い出すなら、もともとゆきかぜは林道走行には全く向いていないのだし(これが結構いけるのだけれど)、雨の中を延々走らせたり、通勤に使ったりしてしまうのは、最も得意分野から外して使っていることになるかもしれないのだし、そうした特性を知ったうえで、自分のバイクライフと、愛車の特性との関係性から、また徐々に新たなバイクライフが日々作られていくのも、長い目で見たときにバイクライフの楽しさでもあるのだと思うのだ。

そして、ポジションを自分に合わせたように、より自分の用途に合わせてモディファイしていく楽しみも、バイクライフにはあるのだから。

ああ、また話が飛んでいくが、久しぶりに一日走れたことで、いろいろ感じ、実感できたツーリングだった。

また6月中旬から7月は忙しい。
でも、隙間を見て、また走りたいと思う。
(遠くへ。完)

4 件のコメント:

  1. とても興味深く読みました。
    共感とは違うかもしれませんが、なるほどな〜と。

    僕にも樹生さんほどの情熱と文章力があれば、自分の感じたこと、思ったこと考えたことを記しておきたいものですが、どちらも持ち合わせませんので淡々と事実を記す程度ですぐにバテてしまいます。

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    1. shinさん、こんにちは。
      コメントありがとうございます。

      延々移動するのって、バイクライディングとしてはあまり面白くないシーンではあって、
      いかにただの移動でなく、走りを楽しみながら行くか、というのが、
      ルートづくりの楽しみでもあると思うのですが、
      今回のように、遠くまで、を優先させると、どんどん「移動」区間が長くなってしまうという…。
      なんだかそういうジレンマみたいなものを感じたのでした。
      まあ、それも楽しんでいけるというのが、バイクライフなのだとも思うのですが。

      私は基本的におしゃべりなので、べらべらとしゃべってしまうのです……^^;)

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  2. もっと遠くへ

    ワタシにとっても、(ブログの)テーマです。
    なぜ『もっと遠く』なのか?
    永らく答えを求め続けています。
    これからも答えを求め続け、きっと答えは出ないのでしょう。

    て、小説でも書くかのようですが、
    ある意味バイク(に乗ること)は、乗り手が書く小説なのかも知れませんね。

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    1. tkjさん、こんにちは。

       ある意味バイク(に乗ること)は、乗り手が書く小説なのかも知れませんね。

      そうですね。
      基本的に身体的、物理的にライディングすることがまずあり、
      その上で、そのライディングをいかに認識するか、
      走ることをどうとらえ、どう感じているか、
      そちらの方が、走り続けることを支えているのかもしれません。

      「ライダーの数だけバイクに乗る理由がある。」
      その中でも「理由」を意識させるところが、
      バイクという乗り物にはあるのかもしれませんね。

      tkjさん、CBRさんと遠くへ、走ってますね!

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