2019年10月20日

インターメッツォ:幌鹿峠PART2、3をUPしました。

樹生さん。
はい。
何が間奏曲(インターメッツォ)ですか、最近、本業をさぼって、動画にかまけているんじゃないですか?
い、いや、そういうことではないんですけど……。
(ああ、だらだらと、文章の長い記事になってしまいました……。)






じゃあ、どういうことなんですか?

え、えと、まずですね、私の本業は、家庭と、仕事と、それから、バイクに乗ること、そのことであって、ブログや、動画は、どちらも「本業」ではありません。

それは、あたりまえでしょう?

まあ、そりゃそうですけど、家庭、仕事、趣味と、3つのフィールドがあるとすると、趣味、つまり個人としての生きる楽しみとしての、欠かせないメインは、バイクで走ることそのものなんだということを、もう一回確認したいんです。

ははあ、ここ数年、忙しさや体調やらで走る機会が減ってきて、「ライダー感」が薄れていることに危機感を感じているんですね。

いや、まあ、そういうこともないわけではありませんが、でも、どんなに残念でも、人生のステージの中では、そういう時期もありますから、それは受け入れていくしかないでしょう。

じゃ、まあいいとして、本業(?)でないとして、このブログや動画はどんな位置づけなんですか?

いや、私にとってはですね、いつの間にかとても大事な存在です。自分でブログを綴って、前のサイト(2007~)から数えると、12年目になりました。思ったよりも長く、ブログを書いているんだなあと、改めて自分の中で、バイクライフについて、写真を撮ったり、文章を書いたりすることの位置の大きさに、これも感慨深いところなんですよ。

でも、本丸じゃないと。

ん――、たとえ、バイクを降りる日が来ても、この12年でブログの読者になって知った、書き手の方々の生き方とか、感性とか、あるいは、私自身がブログを書くことで自分でも認識した自分自身のあり方とか、――また、コメントをいただいたり、自分でコメントしたり、の交流や、実際にお会いして一緒に走ったりしたことで共有できた時間とか、そういうものは、私の中でとても大切なものになっています。これは、20世紀人、樹生和人としては意外なことで、私はインターネットを媒介としたコミュニケーションでこんなになるとは、全然予想していなかったし、そうするつもりもなかったんです。

まあ、樹生さん、かなり保守的というか、古臭いですよね。

でも、私の中で、ブログを通じて知り合えた人の存在は大きいものになりました。
これは、会ったことがなくても、読者として、作家の影響を受けるとか、好きなミュージシャンとの関係とか、そういうものに近いものがあるかもしれません。もちろん、直接会って、ともに暮らすとか、仕事するとか、そういう関係ではない。でも、その人たちの存在は大きなものになりました。

はあ。それで、それがブログの更新さぼって動画上げるのと、どう関係あるんですか?それなら、ブログの方に力を注いだらいいじゃありませんか。

私にとって、ブログは、「言葉」であり、「写真」です。どちらも、そんなに上手くないというか、思うに任せないことも多いですが、ライダーとしてのあり方を、発信し、ライダーとしての四季の感じ方、物事の眺め方、もちろんバイクとの接し方、ツーリングの作法などを話していくのに、「言葉」は私にとって、選択する〈メディア〉(媒体)としては、たぶんいちばん向いているのだと、思います。

それで?

でも、「言葉でないもの」も、同様に大きいんです。
本当に感動をさそうものは、私の場合、言葉にならないものが多かったりする。感動の内実を自分で求めていくと、言葉を頼りに探していくんですが、「言葉でないもの」って、言葉とは別の側面で、非常に重要だと思うんです。

まあ、そうかもしれませんね、それで?

やっぱり、「走り」そのもの、その感覚を、文章にもしていきたいんですが、動画としても残していきたい気持ちになってきたんです。

でも、走る姿を発信するのって、機材的にも、技術的にも大変でしょう?それに樹生さん、あなた、録画するより生で見て、両手を叩いて応援したいなんて言って、子どもの成長期にもビデオカメラ買ってなかったじゃないですか。

ぐぐ。そうなんですよ。
そうなんですけど、何か、ですね。子どもの成長は、親である自分たちが見つめ、見届ければいい、でも、ライダーとしての走りというのは、言葉だけではなく、イメージとしても残さないと……なんて、思い出したりもしたりして。

それ、樹生さんにできるんですか?
だって、樹生さんのイメージしてるのって、ライダースクラブの昔のビデオみたいなものでしょう?


「こんなセッションツーリングに憧れる」(根本健・片山敬済)に動画の紹介があります。

それって、走りの面でも、撮影の面でも、貴方には無理でしょう。

そうなんですけどね。
でもね、今の日本のバイク文化って、年齢層も広くなったし、飛ばすだけじゃなくて、いろんな楽しみ方が広がって、社会の中でかなり認知されたとは思うんです。思うんですけど、今のいろんなメディアで垣間見るバイクと人との付き合い方って、何か、私の中の核というか、そういうものと、ちょっと違う気がして、その、私の言う中心みたいな、大切な何かみたいなものは、もしかしたら時代的なものかもしれない…とも思うんです。

ただ、齢なだけじゃなく?

ええ、例えば私より年上でも、最近バイクに乗り始めた人には、ほとんど感じないそのオーラを、例えば、ブログの中でも、80年代からのライダーには感じることもあるし、ある特別な季節だけが持っていたものかもしれない…とも思います。
でも、それは、消えていいものではないようにも思うんです。

それって、どんなものです?

上手く言えないんです。
影と陽向が一緒にあるみたいな、正と邪が表裏みたいな、陰と陽が一体化したようなもので、例えば、ライダーって、走っている時、何にも代え難い幸福感、解放感などを感じるんですが、でもそれには同時に、深い悲しみや寂しさ、病の気配などもないまぜになってしのんでいるんです。最近のバイク文化は、この陰の部分が漂白された感じがして、どうも乗り切れない。

あなたが「中二病」なんじゃないですか?

それならそれでいいんです。でも、そういうレッテルに収まり切らない、言葉で括り切れない疾走感のようなものが、バイク文化には宿命的についている。なぜなら、どんなにゆっくり走ったとしても、バイクは本質的に、人間の力ではなしえないスピード、登坂力などを持った、走る存在だからです。

ああ、またわからなくなった。
でも、樹生さん、それを動画で表現って、できるんですか?

ブログに載せようと、感動した風景で写真を撮って、家に帰って写真を見てがっかり、ということはしばしばあります。というよりも、いつもそうです。
同じように、…と言っていいかどうか、ただ走っている様子を録画したからといって、そうしたものは映っていない。それは、この夏、初めてアクションカムを買って、走りながら録画してみて痛感しました。
ぜんぜん、映らない。
風景を写真に撮るには、風景を見て感動する心はそのままに、それと離れて、どのように風景を切り取り、どのように光画にしたらそのエッセンスが写せるかを考えなければならないように(そして究極的にはそれを忘れて無心で撮らなければならないように)、動画の撮影には、ただ撮るのではなく、方法的戦略=ストラテジーが必要なのです。それが、僕にはゼロだ。これからです。

樹生さん、話訊いてると、やっぱり動画にシフトしていきそうな感じがしますけど。

う~ん、でも、たぶんならないと思います。

どうして?

たぶん、動画を思い通りに撮るには、圧倒的に時間が要る。また機材なども合う程度は必要で、僕にはその初期投資をする余裕がない。それに、最終的には、どのメディアも、ライディングの神髄を写すことはできない。それは、実際に走ること、ある人の走りを理解したいなら、その人と一緒に走るしかない。そういうものだと、私は考えています。そうだとすれば、擬似的にいくら近づけようとしても、届かないそのものをどう表現するかは、その表現者の選択によるものとなる(ヴィデオはラジオスターを殺さない)。
そのとき、「言葉」って、やはり大切なものになると思います。情報が限られていて、象徴的に伝えるしかないからこそ、その限られた情報の中に本質を読み取る可能性があるのではないかと、思ったりもして。

樹生さん。

はい。

話長い。

あ、すみません。
次回は、「秋の歩みに」の続きです。

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