2015年9月13日

シニシズムに抗して。インターネットの言説について。

インターネットはいまさら言うまでもなく、私たちの生活に欠かせないものになり、私たちのあり方を変えました。
一方で、よく指摘されるように、インターネットでの言説の中には、読むと精神をむしばまれるような、人を冷笑して自分の優位性を誇ろうとするようなものも多くあります。
四方田犬彦はそれを「稚拙なシニシズム」と言っています。
(今日の記事はバイクと全く関係ありません。)

―前略― 情報化社会とそれにともなって襲いかかったグローバリゼーションの状況は、何よりも速度と効率に最高の価値を置いている。あらゆる声は速度を携えているがゆえに表層として扱われ、責任を欠落させた匿名性の海の中で戯れに耽る。この基準に同調しない者は否応なく排除され、居場所を失い、その声を聞き届けることが他者にとっては困難となってゆく。今日進行している事態とは、情報の公共性をめぐって一見平板な地平を準備しているように見えながら、実のところ新しいアウトカーストの創生のために機能している社会体制にほかならない。コンピュータが差し出す、耐えられないまでに軽い速度を受け入れようとしないものは次々と脱落し、人々はますます速度の奴隷と化してゆくか、でなければ特権的に準備された贅沢な「スローフード」の消費者の道を選ぶしかない。……。
  ―中略―
 こうした状況から立ち上がってくるのは、いうまでもなく稚拙なシニシズムである。ニヒリズムではない。ニヒリズムを積極的に維持するには精神の強度と弛まぬ思考が必要とされるが、それを情報の洪水の中で保ち続けることは並大抵のことではない。大半の者たちは安全地帯に身を寄せ合って傍観者を気取り、シニシズムの楽な意匠を纏う側を選ぶ。……。 ―後略―
      (四方田犬彦「世代について」(『人、中年に至る』(2010年、白水社)より。
    ☆アウトカースト = インドのカースト制度で最下層におかれた人々を指す。
    ☆スローフード = 伝統的な食材や料理法により、食生活を根本から考え直そうとする運動、またその料理法そのもの。1986年にイタリアで始まり、世界に広まった。
   ☆シニシズム  = 社会一般の風潮、習慣、道徳などを無視し、冷ややかに釣り扱う態度。冷笑主義。 

現実の世界では、隣人と喧嘩をしたらなんらかの形で人間会計を修復してまたやって行かなければなりません。職場でも同様です。街中で、ただ偶然通りがかり、行がかった場合でも、人は、未来の穏やかな、または安全な関係のために、相手を否定し、傷つけるにしても、最大限の考慮をしなくてはなりませんでした。

インターネット上の言説の中に、相手を馬鹿にし、貶めること以外に能のないようなものが目につくようになったのはもうだいぶ前でした。
しかし、このような言説は、ネット上に蔓延するだけでなく、TVを通じて政治家が論敵を倒すためにいかに相手がダメかを短く効果的に示そうとする言説としてたびたび使われ、安直なその方法がTV的に当初はインパクトがあり、傍観者として見物していて面白いと思われたためか、一定の「型」として利用されるようになったようです。

したり顔で人に道徳を説くような言説のまずほとんどが、実は人を支配し、自分の利得や、自分の征服欲、自尊心を満たそうとする「真意」を隠した嘘であることを思えば、シニシズムの発生にも一定の意義はあります。
しかし、最近はびこっているシニシズムは、その冷笑を、相手が誰であろうと、自分が不快に思ったか否かだけで浴びせかけるような、反射的なものになっており、誠実な意見や、実のある議論になりかけていたものに冷水を浴びせて、そのことで何かを為したような、そのことで自分の存在を示せたような、そんな気になるための行為となっている場合も多いようです。したがってそうした言説への基本的対処は「スルー」、すなわち、完全に無視して、反応しないこと、になっています。そして人の存在や働きかけを完全無視するという「攻撃」が最も知性的で効果的だという環境は、本来、人となんとか関係を作り、協力して生きていくことを前提としてきた人類の中の個々にとって、根本的にその幸福感を削ぐものです。
なぜなら、例えば新生児の命を守り、育てることなどは、言葉もこちらの都合も全く理解せず、自分の生理的欲求をぶつけるだけの赤ちゃんを、いかに無視せず、大切にし、愛するか、ということによって成り立っている行為であり、本来人は、人を無視して平気なようにはできていないからです。
無視をして平気でいる、ということ自体が、シニシズムの病理に蝕まれた不幸な状態なのです。


たしかに、全体的傾向を見れば、インタネット普及、SNS普及以降、言説はそれ以前に比べると無批判な迎合、礼賛と、よく読みもしないで相手を決めつけてけなす冷笑との二極に分かれつつあるような気もします。

実際に空間を共有し、生活や仕事をともにしない者同士のコミュニケーションである、ネット上の言説。
「ウェブログ」を表現形式として定型化したブログも、普及して日本でも10数年。
どこにでも、シニシズムは侵入し、浸食するようになってきましたが、一方でそれに抗して、丁寧に言葉を紡いでいくことも、ネット上であっても可能ではないかと思います。

言葉の持つ、「嘘」と「うさんくささ」の宿命は、それはネット以前からずっと、ずっとあったものですし、そうした中でも、豊かな言葉と言葉による表現を求めることは、ずっと続けられてきました。

同じように、すでに私たちに浸透したネット環境の中でも、シニシズムに浸りながらも、シニシズムに抗し、偽物やうさんくささに落ちないようにしながらも、ネットならではの言説のあり方が、少しずつ作られていくのではないでしょうか。

ネット言説は、誕生してからまだ半世紀も経っていない、赤ん坊です。
いろんな可能性をもちながらも、非常に危険な毒も持っている、そんな言説を、自分なりに、使い、時に逃げ、付き合っていくことが大切かなと思っています。

6 件のコメント:

  1. 他者を尊び、他者の幸せを心から喜ぶ・・・
    誰でもが出来る(はず)の事ができないんだね。

    彼らは『それ』が出来ない故、 他者を落とし込む事が人生の全て となる か・・・。

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    1. 「冷笑主義」は僕は大嫌いです。でも、冷笑主義の人と話し合っても、罵倒合戦にしかならず、平行線。
      もともと「会話」は相手と自分の間に新しい何かを生むものだと思うのですが、最近のディベートやネット上の口論?は、相手を倒して「自分を通す」(勝つ)ことに中心があるようで、それに飲まれてもいけないように思います。
      「冷笑」でも「おためごかし」でもない、「ふつうの言葉」で語れるか、それが自分としての課題だと思います。
      ホントは実生活でも同じなのでしょうけれど、なかなか難しいです。

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  2. 匿名が持つ暴力はもしかしたら人間に古くからある本能的なものかもしれません。
    戦争もその一つでしょうか。
    でもそれを乗り越えるべく人間は社会的進化をして来たのだと信じたいです。
    「ネットならではの言説のあり方が、少しずつ作られていくのではないでしょうか。」
    本当にそう願います。

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    1. モリシーさん、こんにちは。
      ありがとうございます。
      インターネットが匿名性によって剥き出しの悪意や感情を噴出させてしまったとしても、同時に、名もなき善意の人々の声も、掬い上げるようにもなりました。
      強く見せたい、認められたい、誰かを貶したい…、そんな誘惑に抗して、「自分の言葉」を、語れたらいいなと思います。
      それが怒りなら、自分の怒りを。それが悲しみなら、自分の悲しみを。
      自分のことばで語れたらいいなと、思います。

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  3. こんばんは、金田です。
    樹生さんの責任に対するどこまでも真摯な姿勢にいつも感服します。
    そして生きにくくないのかな、とも思います。僕には到底無理だな、と感じます。

    こういった文章のニュアンスもどう伝わるのかが分からず、どう伝わったのかも分からないのが文章での交流の難しいところだなと本当に何度も何度も感じさせられました。
    また、気軽に自分を発信できることで得られる承認欲求のようなものにも、何度も苦しみました。
    もちろん素敵な面もたくさんあって、樹生さんが以前書かれた「ソロ」は今でも僕の生き方に大きな影響を与え続けています。僕にとってはとても素晴らしい出来事でしたが、人ひとりの発信が誰かの生き方に大きく影響を与えると考えると、素晴らしい反面危険性のようなものも感じます。
    受け手の自己責任、ということもできますが樹生さんはあまりそう考えなさそうな気もします。

    おそらくこれからもインターネットは利用し続けますし僕も何かを発信し続けるとは思います。
    僕は仕事でもなく特に責任もなく発信しているので何か欲求があってのことだと思いますが、常に自分のスタンスを客観視して内面を確認しておかなければ、と感じています。
    すぐに安直な欲求を満たすために発信しがちになってしまいますので。

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    1. 金田さん、こんばんは。
      コメントありがとうございます。

      私自身、ブログを書いてもう8年たちました。
      それで思ったことのひとつは、ブログって、自分の承認欲求を肥大化させるなあ…ということでした。
      実体がない、ということは書いてある世界だけが自分の世界なわけで、生身の自分を棚に上げていろいろ思うことを話せるわけです。
      これは快感でした。今も書き続けているのですから、この快感は、なかなか曲者、癖になるようですね。
      さすがにインターネットの存在自体を悪と決めつけ、拒絶することが正しい人間のあり方だというふうの議論は、最近見なくなりました。それだけ、私たちの生活、日常の中に、ネットが浸透したからだと思います。
      自動車で毎年たくさんの人が死んでいても、もう誰も自動車の存在そのものを否定することはできなくなったように、私たちの今の暮らし、今の在り方にネットの存在は、決して無視できないものになってきたのだと思います。

      実体のない、または、実態と結びついてはいても、それが直接的ではないネットの世界での「暮らし」は、身体性や実人生時の豊かな実感を蝕まずにはいません。
      でも、それももう、現代社会の「条件」です。

      車やバイクでも、豊かな文化が作れる可能性があるように、ネットにまつわる個々人の活動でも、今までにない新たな価値が創造され、人と人とを幸せに結んでいく…そんな可能性もあると思います。
      現在のところはまだ、胡散臭さや偽物臭がプンプンするものの方が多いですけれども。

      僕自身、ブログをいつまでかわかりませんが、もう少し書いていきたいと思っていますので、
      インターネットでの匿名性に乗っかった、「誰のものでもない」闇から突然顔を出す「冷笑」でない表現を、
      なんていうと難しい表現になりますが、私自身のことばを、自分のことばを紡いで行けたらなあと思うのです。
      素直に言葉を発することのなんと難しいことか。
      もう私にはできそうもありません。でも、できそうになくても、求めてしまうものがあります。求めてしまうことがあります。
      そういう言葉を、求めていきたいなあと思っています。

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