2020年末に衝撃的な大ヒットを飛ばしたADOの「うっせぇわ」。
社会現象にもなったと言われ、YouTubeで再生回数が2022年3月28日現在で2.1億回。
若者文化や最近の曲に全然ついて行けない僕も、うっせぇわは痛快な感じがして好きでした。
もちろん、不満がないわけでもなかった。歌の中の主人公が自分は凡庸ではないと考えているところなど。自分の方が正しいとか、自分は天才だとか、「凡庸なあなたにはわからないかもね」なんて言った瞬間に、「わたし」は「あなた」と同じ匂いの悪臭をその口から放っているのだ…なんてところです。(口臭のメタファ自体嫌いですが、ここは仕方ないでしょう)
この曲の衝撃的な魅力は、何と言ってもそのボーカルのADOの声、歌唱力によるところが大きかったでしょう。
ADOは、僕が例外的に効きたくなる若いアーティストになりました。
その魅力は最近の曲、この3月14日に発表された「永遠のあくる日」でも、また新たな側面を見せてくれました。
ADOの魅力について語ったら、それこそ、もういろんな人が語りつくしていることでしょう。
今回の曲は3拍子のせつない曲。
作詞作曲は「てにをは」
イラストは「村田ゾンビ⁉」
ムービーが「ナノン」
他にもメンバーが集まって局とMVを構成しているのですが、そのクォリティの高さに圧倒されます。
この「永遠のあくる日」は21年2月14日発表の「ギラギラ」と同じ作詞作曲、イラスト、ボーカルからなっていて、曲としては別々なのですが、MVを見ていると、「永遠のあくる日」は「ギラギラ」と対をなしているように感じられます。
どちらもいろんな解釈ができるような歌詞になっていて、聴き手によって紡がれる世界がいろいろに変わる点や、沼田ゾンビ⁉のイラストがかなり世界観を強烈に描き出していて、曲の世界の彩を決定的にしている点が共通しています。
そして、ADOの声と、歌唱。
今回の「永遠のあくる日」は、切ない失恋の歌なのですが、ADOの歌唱力によってその喪失感が聴き手の胸がえぐられるほどに、美しく深められていました。
いままでの「歌が上手い」歌手とは違う世界にADOはいて、しかも、歌うことで彼女も無傷ではいられない、そういうタイプの表現者です。
そして、「永遠のあくる日」の歌詞では自分のことを「僕」と言っていますが、イラストに出ているのは、とてもかわいい女の子です。そして、彼女がうしなった恋人は、イラストから見ると「ギラギラ」のヒロインの女の子のようです。
ここで、私のような年寄りが驚くのは、この失恋に「女の子同士の」という但し書きが、全く必要ないレベルでの失恋ソングになっているということです。
男の子と女の子の、とか、男同士の、とか、女同士の、という恋愛の「カテゴリー」のようなものに、今までの(昔の、と言わず、今までの、と言ってしまいましょう)ラブソングは、いつもはまっていたように見えるのですが、この「永遠のあくる日」の恋は、そうしたカテゴリーを無化してしまうほど、純粋な恋愛ソングであり、失恋ソングであり、喪失のソングでした。
新しいふりして実は非常に懐古的なファッションがおびただしく量産され、僕たちを包んでしまっている今、(例えば「バイク女子」なんてカテゴリーから匂うものは、下品な僕のような中年オヤジの脂ぎった助平心による視線と、それを集めることが自分の価値を上げることだと認める全く古い「女性」の救いがたい共犯関係です。)
ADO、てにをは、沼田ゾンビ⁉のタッグが作り出す世界は、偽り、おためごかしにNO!と言い、それによって孤独になり、傷つき、自分が嫌いになり、自分を醜いと思っている、誰の中にも本当はいる心の核の部分への、精一杯の応援歌なのです。
それは、体制への批判や犯行をうわべだけ表現させて、そのグループ自体を体制的に支配し、若い才能や憧れを鼓舞し、そして次々に使い捨てていく売れっ子プロデューサーの創り出す世界とは、全く逆のものといっていいでしょう。
この時代に、この世界に、確かな表現者がいるということは、
とても、勇気づけられることです。
本物の才能が、激しく闘っています。
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