2015年5月25日
五月、田植のころ。(2)見晴らしの松、再訪。
当別町青山と、石狩市厚田をつなぐ道道11号線、その青山から厚田に向けて少し峠を上ったところに、北海道記念保護樹木のひとつ、「見晴らしの松」が立っている。
この樹は、2007年の3月に一度車で訪れたことがあり、ブログの記事にも書いている(「北海道の樹を訪ねて-4-当別町見晴らしの松」)。
もう、8年も前のことだ。
今日は時間もあることだし、再び訪ねてみることにした。
道道から見晴らしの松へは30~50mくらい。道道からの入り口で既にその姿は見えている。
2007年に訪れた時にはなかった看板ができていた。
「大正3年(1914)に付近一帯が山火事におそわれたとき、周囲の樹木はすべて焼失したにもかかわらず、この木だけは一本の枝も被害を受けずに生き残りました。」とある。
その大火事からももう、100年が過ぎた。
周囲の樹はこの水松(イチイ)の樹よりも背が高くなっている。ドイツトウヒも周囲にあるのは、植林されたからだろう。
周囲の木々の中では、むしろ小さく見えるほどだ。
しかし、幹は太い。
確かに、周囲にこんなに幹の太い樹はない。
それだけでなく、この幹は、樹の皮が周囲にほとんどないように見える。
これでは水分を土から枝へ運べないのではないか。
もしかしたら、山火事の傷跡だろうか。
周囲に柵はなく、根方まで近づくことができる。
幹に寄ると、その質感に驚かされる。
これが生き物か。
半分鉱物のようだ。
枯れた枝もたくさんある。それでも、樹皮があり、枝がついて葉が茂っているところもある。
なんだ、これは。
樹の上の方はこんな姿だ。
一本の樹とは思えないような姿をしている。
枯れては折れ、そうすると下からまた枝が伸びてきて、幹となり、時間をかけて育っていくが、また枯れて、折れ、するとまた…。
一本の樹の中で数多くの世代交代が繰り返されてきたかのようだ。
枝の若葉はみずみずしく、色も空けていてさわると柔らかい。
針葉樹独特の匂いもする。
しかし、赤松や黒松のようなきつい匂いではない。
少し柔らかい、不思議な匂いだ。
根方は地面に深く刺さり込み、地面にがっちりと喰い込んでいる感じだ。
何があっても、離れそうにない。
樹の重量を思わせる。
そうだ、樹は、地球最大の生き物。最も重い生き物でもある。
この樹の周囲は半径10~15mくらい、他の樹が生えていない。
下草刈りをし、他の樹が伸びてこないようにしているのだろう。そしてこの広場の外側には、植えられた針葉樹たちが、この樹よりも高い森を形成し、風や風吹からこの樹を守っている。
足元に、四角く加工された石が数個ならんで、その間に板を渡した、ベンチの跡のようなものがいくつかあった。
以前、このベンチに腰かけて、このイチイを眺める…そんなふうになっていたこともあるのだろう。
しかし、ベンチは今や朽ちていて、座る気にはなれなかった。
原始の森には、周囲にどんな木々が生え、どんな動物たちが歩いていたのだろう。
アイヌの人たちもこの樹を愛したのだろうか。
明治になり、本州以南から多くの入植者が訪れ、樹を伐り、さらに切って木材に加工し、本州へ資源として送って行った。
切り開いた平地は開墾されて畑となり、村ができる。
山は皆伐され、一度裸にされる。そしてその後に樹を植えられたり、自然に生えてきたりして「2次林」と呼ばれる森をつくる。
北海道の森は、そのほとんどが2次林。実は、原始の森は少ないのだ。
100年前の山火事は、どれくらい燃えたのだろう。
その中で一本燃え残ったこの樹は、はげ山になった山の上から、谷を見下ろすように見えたことだろう。
「見晴らしの松」という名は、そうした歴史が作った名ではないだろうか。
今でもこの樹は北海道の保護を受けている。周囲の環境は人の手によって整えられ、未来へ、その姿を残させようとしている。
確かに、この老木が死んでしまったら、100年以上の命を刻んだ生き証人は、この近くの山にはいなくなってしまうのかもしれない。
麓の青山には、平成12年までは青山小学校もあった。
僕が走った記憶の中でも、青山には何軒かの家があり、人が住んていた記憶がかすかにある。
今、この麓に集落はなく、民家もない。
故郷に住む人はいなくなり、風景も変わっていく。
僕も、もう行こう。
青山の水松、見晴らしの松に挨拶をささげて。
ゆきかぜと峠を越えて、日本海沿いの厚田をめざす。 (つづく)
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