2019年8月5日

陽射しと、木蔭。(2)

ゆきかぜ(MOTOGUZZI V7Special 2013)とともに、国道231を北上。
新送毛トンネルを越えて、送毛の集落へ。
そこから送毛林道を登っていって、しばらく走ると、「千本ナラ」の樹がある。

 
今日は、この樹を訪ねて来た。
この樹を訪ねるのは、もう5回目だろうか。
初めて訪れた…といっても、それは昔。
ブログを始めて、最初に訪れたのは、2007年7月だった。
記事にしている。

 北海道の樹を訪ねて-11-千本ナラ(その1)
 北海道の樹を訪ねて-11-千本ナラ(その2)
 北海道の樹を訪ねて-11-千本ナラ(その3)
 
この時、林野庁のHP、石狩市のHPから次のような文章を引用している。
日本海から吹き上げる風のため、枝が多数に分かれて空に向かって伸びている姿が、千本も生えているように見えることからこの呼び名がついた。この木に触れたり葉で患部を撫でると病気が治ったということから、御利益のある木、御神木としてテレビ報道され全国的にも有名になっている。年間約3,000人もの人が訪れている。(林野庁HPより。現在はそのページは存在しない。。)

「新日本名木100選」に選定されている樹齢820年(推定)、幹周り4.8メートル、樹高18メートル級の大木が3本並んで、送毛(おくりげ)山道頂上付近にひっそりと息づいています。長い時を経て悠然とたたずむその姿は、訪れる人の感動を誘います。(石狩市のHPより。現在はそのページは存在しない。)

今日の看板は「森の巨人たち100選」とある。
林野庁の新しいHPでは、100選のうち、ナンバー1がこの千本ナラである。
ミズナラの樹で、幹周480cm、樹高18mとある。

以前はミズナラの巨木が急な斜面に3本立っており、3本合わせて千本ナラと言っていた。
今日、入ろうとすると、その中央の一番大きな樹への道がロープを張られて立ち入り禁止になっている。
右奥の樹は以前からほぼ枯死していて行けなかったと記憶しているが、中央も立ち入り禁止だ。
左側の樹のみ、道が続いていた。


この異様な姿。
神々しいともいえるし、すこしおぞましい形にも見える。

それにしても、こんなに明るい昼間に、この樹を訪ねたのは初めてだ。
明るい風景の中で、樹は、黙って立っている。



整備された道を下って近づいてみる。
明るく、暑い、夏の昼時。
この樹の周りだけ、暗い。
広げた枝に茂らせたミズナラの葉が、木蔭を作っている。


さらに近づく。
賽銭箱があるのも、変わらない。
木道にして根に負担をかけないようにしているのも変わらない。
また、しめ縄を回していること、そこに願い事を書いたしゃもじがたくさん指されていることも、12年前と変わっていなかった。

幹のすぐそばまで行き、樹に挨拶をささげ、
不躾とは思いながら、しゃもじに書かれた願い事を拝見した。
















たくさんのしゃもじ、新しいものも多くて、その願いはみな真剣なもの。
昔は、病が治るという伝説から、病や健康に関する願い事が多かったようだが、最近は病に限らないらしい。


見上げる幹はまだ力強く、葉は肉厚で、ミズナラは元気に見えた。
数百年の時を超えて生き続け、立ち続けている巨木。
地上でもっとも大きな生物の一つである巨木には、なにか畏れのようなものも感じる。

以前のブログで僕はこんなことを書いていた。
かなり長いのだが、引用する。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

私が感じた悲しみの正体は何でしょうか。
夕暮れ、疲労、いろんなことが混然となり、例によって感傷的になっているのはそうに違いありません。
しかし私は前回記事の写真とは違う、3本あるという中のもっとも大きな別の固体、本来の「千本ナラ」というべきミズナラを見ていて、ああ、と思い当たることがありました。

もっとも太いそのミズナラは、しめ縄が巻かれているだけでなく、たくさんのしゃもじがぶら下げられたり、しめ縄と幹の間に差し込まれていたりして取り付けられていました。
このミズナラの樹、林野庁の記事にもあったように、「この木に触れたり葉で患部を撫でると病気が治ったということから、御利益のある木、御神木としてテレビ報道され全国的にも有名になっている」樹で、それでその御利益にあやかろうと、またはすがろうとして、多くの人が訪れるようになったのでしょう。
いつの頃からか(たぶん最近だと思いますが)、しゃもじに願い事を書いて括りつければ、または樹に挟みこめば願いがかなうという、何やらいかがわしい伝説のようなものまでできて、たくさんの人が押しかけては樹に願い事をしていったようです。


賽銭箱まで設置してあるのは、この樹を神木として拝むことを設置者が容認、または推奨していることを示します。

しかし、多くの人が訪れ、根方を踏み固めたため、また、お神酒を樹にかけて祈願する行為を続けたため、約800年を生きながらえてきたこの千本ナラは急速に衰え、太い枝は巨大な棒切れのようになり、途中で折れたり、枯死する枝が出てきたようです。今では、痛々しく木のつっかえ棒で枝々を支え、足元は木道にしてこれ以上踏み固められないようにし、何とかこの千本ナラを守ろうと人々が努力している様が伺えます。

私が思い出したのは、「千手観音」でした。
仏教について語る資格など私には微塵もないのですが、観音とは、「この世」「現世」の苦しみから人を救う仏だと聞いたことがあります。
もし、すべてが無常、一切が苦なのが真理だとしても、この世の苦しみから、この世で人々が救われたいと願ったとしても、それを笑うことなどできないでしょう。

千手観音は、一人でも多くの人の苦しみを癒し、救おうとして、千本の手を持つようになった、と、どこかで聞いたことがあるような気がします。(まちがっていいたらすみません。記憶だけで書いています。)


「千本ナラに触れると病気が直る…」
これは、千本ナラを千手観音に見立てたものではなかったでしょうか。
しかし、年間3000人、10年で3万人の願いをこめたお参りに、根方は踏み固められ、樹皮は傷つけられ、撒かれた酒で根や地面の菌類の生態系を壊され、千本ナラ自体が死に瀕している…。私には、この樹の状態がそのように見えたのです。
純情な人々の、素朴な願いが、重なって重なってこの樹を少しずつ殺していく。
その罪のない無邪気さへの腹立たしさと、それに耐えて立っている、この樹の姿に、私は悲しみを感じたのかもしれません。

では、今この樹を訪問している私はどうなのか。もちろん、私もその無邪気な、自分勝手な願いで樹を殺す一人であることに間違いはないのです。
それどころか、私は病を治して欲しくて、必死の思いで訪ねたのではない。ただ、「見に来た」のです。

そして、病を抱え、ほんの藁にでもすがるような気持ちで、病の快癒をひたすら祈り、この樹に願いを掛けようとした人を、どうして私がかりそめにも責めたり、見下したりできましょうか。

実は私、この樹を昔訪ねたことがあります。
その時は木道はなく、しめ縄とたくさんのしゃもじと、賽銭箱と、それから「樹が弱るから酒はかけないでください」という趣旨の看板とがあったのでした。
そしてその時も、私と同時に樹を訪ねていた何人かの人々は、賽銭箱に賽銭を投げ、樹をなで、祈り、樹に日本酒をかけてまた祈り、帰って行ったのでした。

さすがに酒をかける人はもういないのでしょう。
しかし、私は、この樹のしめ縄、そして賽銭箱が、この樹を今も神木に仕立て上げ、この樹をさいなみ続けているように思えてなりません。

齢を経た巨樹は、神かもしれない。
しかし、それは人間たちを救うための仏ではない。
人だけのための神ではない。
樹は、樹として生きることで神である。

私は千本ナラの前で、言葉を失っていました。
私は、樹に抱きついたり、肌をなでたり、場合によっては木登りしたりすることが大好きなのです。
しかしこの日、私は、伸ばせば触れられる千本ナラに触れることができませんでした。
無数のしゃもじに書かれた願い事も読まず、賽銭箱にも近づかず、ただ幹と、夏の葉繁る枝と、その向こうに霧に煙る森を見ていました。
(引用、以上。写真も以前の記事より再掲)
*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *


もっとも大きな樹の周りは広く立ち入り禁止になっていた。
ロープに付けられた札には、
 『立入禁止 倒木の危険性があるため、このロープより中への立入りを禁止します。』
の文字。


幹が傾いているのも以前のままだが、確かに発しているオーラが違う。



以前から、倒れないように大枝を木の柱で支えていたのだが、幹の表情が変わっている。
枯死が進んでいるようだ。

森の巨人が、もう少しで命を終えようとしていた。

もう一度、左側の樹を見上げてみる。
まぶしい夏の陽。
でもこの樹の下は、木蔭になって少し涼しい。
大樹の下は、いつでも少し涼しいのだ。

その時、遠くから響く爆音。かなり大きな音だ。
やがて数を増やし、近づいてくる。
オートバイ、それも、四発の音だ。
台数も結構あるみたいだ。
4台? 5台? いや、もう少しいる。
その音が近づき、やがて上の駐車場で停まった。

バイクのツーリングの人達のようだ。

僕は樹に別れの挨拶をして、道を上がっていく。
駐車場から木へと降りていくバイク仲間の人達とすれ違う。

「こんにちは。」
「こんにちは。」
みんな穏やかに声を交わして。


駐車場へ着くと、さっきまで僕一人、一台だった駐車場に、9台のバイクが行儀よく並んでいる。
ホンダが7台、カワサキが1台、スズキが1台。
CB350Fourや、CB750F、カワサキZⅡ(ZⅠ?)…。


この千本ナラは、訪れるたびに、切ない気持ちになる。

今日は、来た道(送毛林道)を北上して帰る。
送毛の集落へ下っていく道。
その途中から、

送毛の湾と砂浜。遠くに浜益の街が見えた。
海は穏やかに。
山は緑。
空は青く。


ゆきかぜ。

ぼくらはこの夏空の下。

生きている。

生きて、走っていこう。

今日も必ず、生きて帰ろう。

走りを、生きることを、楽しんで。

(つづく)

2 件のコメント:

  1. 千本ナラ・・僕も似たような気持ちを持っていました。
    いつも波の音を聴きに来る道。
    そっとしていたい気持ちがあって、訪ねてもこの樹だけは何故か撮れません・・
    ただ感じていたくなります。

    命に触れながら、そこに根を下ろして生きる大きさを感じながら、
    僕たちは今を生きてること、今を走っていられること、
    これからもずっと、掛け替えのない「いま」を大切に、楽しんで走って行きたいですね。

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    1. selenさん、こんにちは。
      この日は、よく晴れて、森の中にも眩しく、熱い日が多く射し込み、
      景色がとても明るくなっていました。
      いつも感じる、鬱蒼感がなかったのです。
      それが私にも影響したかもしれません。

      「迷走」さん、も7月31日のエントリで、命に関することを述べていられました。
      我々同世代、単に齢をとったからというのではないと思いますが、
      もしもそうなのだとしたら、
      齢を重ねていくことも、なかなかにいいものだと言えるのかもしれません。

       掛け替えのない「いま」

      本当に、おっしゃるとおりを実感しています。
      楽しんで、走っていきたいと、思います。

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