2020年5月5日

1980年代のバイクテイストをどうぞ。「月と川音(3)」

「月と川音」第3回 (最終回)

しばらくもしないうちに川の向こう岸の街の灯が切れて、
夜の闇が回りを支配してる感じになった。
暗い中でライトに照らされた所だけが白く明るく光って。
道はもうセンターラインもない細い道になってた。

先輩は速度を落とさない。
暗い闇の中から、突然景色がライトの輪の中心に現れて、あっという間に輪の外側に消えていく。
次々に輪の中心に新しいものが現れる。
木々の葉、道路の標識、カーブしてる道のガードレール。
速送りの白黒映画を見てるみたいだった。
狭い道で登ったり下ったり、右に傾いたり、左に傾いたり、景色の流れは相当速いんだろうけど、揺れはゆりかごみたいに感じた。
風切りのゴーっていう音と、バイクの音しか聞こえない。
なんだか地上じゃなくて別世界に来ているみたいな感じだった。



右側に川が流れているのが分かった。
このあたりでも川幅はかなりあるのだけれど、もう両岸は山が迫ってきていて、川の流れもきっと速いのだった。
まったく見えないのに、どうしてそれを感じるんだろう。
時々電信柱に街灯がポツンとついていて、その横に木造の小さな小屋が建ってたり、遠くに2,3軒の家の明かりが見えたりしたけれど、それもすぐに後ろへ飛び去って行くのだった。

夜にドライブしたこともある。でも私は助手席で、外の暗さが怖かったのと、彼の顔色ばかり気にしていたような気がする。

ふと、何かの匂いがした。
強い匂いじゃないのに、そこら辺の空気に満ち満ちている感じ。
少し甘ったるいような、少し粉っぽいような、変な匂い。
するとバイクがゆっくりと速度を落とし始めた。
速度が落ちると景色が流れなくなり、ライトの輪から外れた横の景色も闇の中に感じられて、ここは少し広くなった谷の中で、川は少し遠ざかり、周りはどうやら田んぼらしかった。
「井上!」
ゆっくりになったバイクの上で、先輩が半分振り返りながら叫んだ。
「ハイ!」
私も大声を出す。
「いい匂いだろ!」
「え?!」
「いい匂いだろ!収穫前の田んぼの稲の匂いだ!香ばしくて、豊かで、いい匂いだろ!」
先輩が叫んだ。
「…はあ。」
いい匂いと言われても、私はなんともいえなかった。
すると、先輩が笑った。
「はは。井上、町育ちか!」
「そうです!」
「ははあ、そうか!町育ちか!」
どうしてこんなことをバイクの上で叫びあってるんだろう。
そういえば、私は彼の前で一回も大声をだしたことなかった…。
「井上!」
「はい!」
「怖くないか!」
「怖くないです!」
「もう少しだ!大丈夫か!」
「大丈夫です!」
すると先輩はヘルメットの頭を大きく2,3回縦に振った。
先輩に捕まってる両手から先輩のおなかがちょっと振動してる感じが伝わってきた。
…先輩、笑ってる。
どうして笑ってるんだろう、こんな田舎の夜の暗い道で、バイクを流して、とても楽しそうに笑ってる。
この人は彼と全く違う。
そんなことを考えていたら、先輩の背がまた前に倒れこんだ。
加速?ここで?
狭い暗闇の田舎道、えっ、さっきの広い道と違うのに…。
そう思った瞬間、またバイクの音が変わった、私はあわてて先輩にしがみつく。
また、あの加速が始まった。
闇の中で、バイクの轟音だけが私の耳に響く。
さっきより上下に揺すぶられる。
闇が、たくさんの糸になって私の右と左をすごい速さで駆け抜けていく。
と、先輩の背が起き上がった。
今度は急ブレーキがかかる。私は前に押し付けられる。あわてて教えてもらったように膝で先輩を挟んで耐えるようにした。でも、すごい力の塊に前に押し付けられる。どこも押されてないのに、強い力。逆らえない、強い力。
…と、今度はその力がふっ、と消えた。一瞬、ふわっと感じたと思ったら、もうバイクは傾いていた。左の路面が近いのが分かる。ふわっとしたその感じがやんわりと受け止められたと思ったら、もうそのときにはバイクの音がまた変わって、バイクが叫び出している。傾いたまま、加速してる。やんわりと、シートに押さえつけられたまま、バイクがぐううっと旋回しているのが分かる。ライトの中の景色が全部左から右へ流れる。その流れが遅くなった?と思ったころにはバイクはもう立ちあがって、加速していく。
また闇が糸になって左右を飛び去る。糸じゃなくて闇の粒なの?分からないまま、またブレーキで前に押し付けられたかと思ったら、ふわっときてもう右に傾いてた。

こんな体験は初めてだった。
ジェットコースターとも違う。彼の車で、彼が飛ばした時は怖かった。でも、今は怖くない。怖くないのに、押し付けられたり、浮き上がったり、引き剥がされそうになったり、その度、世界が変わった。矢の様に走り、水のように溶け、どんな羽根布団より柔らかく受けとめられたかと思うと、置いていかれそうになる。
私は、先輩にしがみつきながら、すごくどきどきしていた。怖いはずなのに、怖くない。風が、私の体の中を突き抜けているような感じがする。空気の流れの中に、私が透けてしまいそうに感じる。でも実際には夜の空気を切り裂いて、私は飛んでいる。
飛んでる?
そうか、飛んでるんだ。
私は今、地上1mの高さを飛んでいるんだ。
このバイクは、空飛ぶほうきみたいなもので、先輩と私は、ほうきに乗ってるんだ。
曲がる時は内側に倒れ、また起き上がる。不思議だった。どうして倒れて、どうして起き上がるのか、全く分からない。気がついたら、右に、左に、傾いていて、傾いたまま少し飛んでるうちにいつの間にか起き上がっている。
すると、バイクが吼えた。クオオオォォ…って、吼えた。
吼えながら、もっと速く飛ぶ。道に沿って身をくねらせながら、立ち上がる度にバイクが吼える。
この子は、竜なの?
先輩と私がまたがっているのは、ほうきじゃなくて、リュウなのか。
とても強いけれど、やさしい。目の光る、リュウなのか。

夢中でいるうちに、周りはまた変わっていた。
川は両側を高い崖に挟まれた谷の中を大きく大きく身をくねりながら流れ、道とバイクは川に沿って大きくくねりながら進んでいた。
川がリュウなの?
不思議な不思議な感じに、はじめての感じに私は打たれていた。
いつの間にかスピードが落ちて、先輩は流すような速度でバイクを走らせる。
道も川に沿ったゆるやかなカーブになって、さっきまで吼えていたバイクは、静かにハミングしてるみたいな音になっていた。

先輩が左手を上げて上を指差した。
上?
先輩の腰に両手でつかまったまま、私は上を見上げた。
すると、空に月が出ていた。
大きな、円い、月だ。
月の周りの夜空も明るく感じるほどの、明るい満月だった。
いつ橋を渡ったんだろう、川はいつの間にか私の左側に来ていた。右はすぐに崖のような山の斜面。左はガードレールの向こうに川。
道は、崖の中で川よりもかなり高いところに架けられていた。
眼下で、川の水が月の光を反射してキラキラ輝いているのが見えた。
川は前方で大きく左にカーブしている。右側の山が、前方では正面に回りこんで、月明かりのおかげで、その向こうにもっと大きくて高い山が黒々とそびえているのも見えた。
明るい。月の光はこんなに明るいものだったのか。
川をもう一度見ると、流れが輝き、広い河原のじゃりも見えた。対岸の山に樹がたくさん生えているのも分かった。
前方のカーブに向かって、道は登りになっていた。
バイクは速度を保ったまま、ちょっとハミングの音を高めて進んでいく。
さっきまで闇の糸となって私の体を突き抜けていた空気は、夏の終わりの、少し涼しい風になって借りた先輩の服をちょっとだけはためかせながら、吹き過ぎていた。

バイクは曲がり角のところに来た。先輩はバイクをとてもゆっくり走らせた。
ここが道では一番高いところ。川は崖の下、はるかに下の方に見えた。
振り向けば左後ろには川が遠くまで月の光に反射してキラキラと流れ、両側の山は黒く、V字の谷を作って遠くまで続いていた。今来た道だ。川をさかのぼってきたから、川は向こうに流れていることになる。南に向かって下っていく川を、北上してさかのぼって来たんだと分かった。
左前方には、さらに上流が同じような谷の中でずっと続いていた。夜の山並みが、遠くまで見える。空がとても明るく感じる。
これから道が下っていくのが見えた。川の高さまで下っていくらしい。ずっと遠くに灯りが見えた。小さな集落があるのだろうか。

自転車よりもゆっくり、先輩はカーブを曲がった。
下り坂になる。
と、先輩が左手を上げて、手のひらを思い切り開くと、パッと握った。
何だろう?何のサインだろう?…と思ったら、バイクのライトが突然消えた。
先輩がスイッチを切ったんだ。
びっくりしたけれど、もっと驚いたのは、ライトを消したのに、月明かりで、道が見えてることだった。
山と、谷と、川と、全部が、月の光を浴びて、やさしい青い光に濡れていた。
バイクは下り坂で徐々にスピードを上げていた。
また風が横向きの糸になり、景色が流れ出す…。
と、そのとき、また先輩が合図した。
左手を上げて、下ろす。
月の光に、先輩のヘルメットがちょっと光って、腕の上が月明かりで濡れたようにつやつや見えた。
とたんに、静かになった。
先輩はエンジンを切ったのだ。
でも下り坂、勢いがついていて、バイクは滑らかに走り続ける。
エンジンを切ったとたんに、あまりの静かさにびっくりした。ずっと、バイクのエンジン音を聞いていたんだと、改めて気づいた。
でも、驚いたのはその次の瞬間だった。
音が、
この長い谷の音が、
四方から先輩と私を包んでいた。
風の音、服のひだをすり抜けていくひとつひとつの細やかなささやきまで聞こえ出した。
空の風。
空の風の音など、聞こえるはずがない。
現に聞こえてはいないはずだった。でも、月の輝く夜の空に、西から東に流れていく空気の高いところの音が、はるか下のここまで届いているような感じがした。
バイクのタイヤの音。
路面を走るバイクの、タイヤの音が聞こえてきた。
エンジンを止めても、バイクは眠るわけじゃないんだ。
私たちを支えて、空中に支えて、この道を進んでる。バイクは今も生きて、私たちを乗せている。
そして、川の音。
エンジンをかけていた時は全く聞こえなかった、川の流れ。
その音が、近くから、遠くから聞こえてきた。
それは、川の水が川底のジャリを叩く音だったり、大きな岩に流れを左右に割られて、岩の後ろでもう一回出会う音だったり、川底の円い石を次々に撫でながらピアノを弾くみたいに流れていく音だったりした。
この谷の中で、すべてが、生きていた。
すべてが生きて、それぞれの音を奏で、私たちを包んでいた。
大きな山の木々の風に揺れる音も聞こえてきた。近くの山も、遠くの山も、こちら岸も、対岸も、山の木々がみんな、生きて、揺れて、音を出していた。
私のしがみついている先輩の腰の、体温の温かさが感じられた。先輩のジャケットの上から私も手袋をしているのに、先輩の体温が感じられた。
思わず背中に身を寄せると、先輩の背中から、やさしい体温が感じられた。
バイクのエンジンは切れたままで、静かな滑空が続いていた。
足の脛の辺りにかすかな温かさを感じる。
これは…?
バイクのエンジン?エンジンの熱?

ああ、先輩のバイクは、先輩と一緒なんだ。
生きてるんだ。
私を気遣ってくれている。
大きな自然の中で、先輩と、先輩のバイクと、私だけが、この谷の中で、地上1mの滑空をしていた。
えも言われぬ幸福感が、私を包んだ。
いい子であろうと必死だった私。
かわいい彼女であろうと一生懸命だった私。
彼のことばかりで、ホントは苦しかったのに、自分で気づかなかった私。
彼のことに夢中になったんじゃなくて、ホントは自分が、恋したかった、誰かに愛されて、私みたいな人間でも、誰かがいていいんだと、自分を必要としてくれるんだと、思いたくて、そのことばかり見ていた…。
バイクはだいぶ川面に近い高さまで坂を下ってきていた。
坂がゆるくなり、速度が落ちはじめている。
先輩の背中が少し動いた。
エンジンを掛けるんだ。
今度はわかった。
その瞬間を待っていると、一瞬後ろから引かれたみたいに感じた後、ブン……、とエンジンが目覚めた。
エンジンの音がまた私たちを包む。
川の音も、周りの音も、背景に退いたけれど、私にはわかった。
聞こえていなくても、この谷のものがみんな生きていて、自分の音を出している。
月の光の下で、自分の形を、反射している。
先輩かもう一度、上を指した。
そう、月が、空にある。
月が谷を照らし、川を照らし、山の木々を照らし、道路のアスファルトを照らし、その中を走る先輩のバイクと、先輩を照らしていた。
そして月は、同じように、私も照らしていた。
先輩の後ろで、先輩にしがみついて、ただ泣いている、ちっぽけな、私も、他のすべてのものと同じように、照らしていた。







………。

これが、私とバイクのはじめての出会いよ。

ヨーコさん、その先輩とはどうなったんですか?

あら、あなたのリクエストは私がバイクに乗るきっかけでしょ?
これで充分じゃない。

え~、そうですけど、その先輩と、恋人になったんですか?
その日、それからどうなったんですか?

それはね、また、別の話だわ。
いつか、あなたが本当に聞きたくなったときに、話してあげる。

え~?私、今でも本当に聞きたいですよう。

だめよ。
いい?話すことも、聞くことも、バイクで走ることも、みんなひとつのことなの。
それが分かったら、話してあげるわ。

ええ~?ヨーコさん、そうやってはぐらかさないでくださいよう。

ふふ。
カナちゃん、今から、走りに行こっか。

えっ!ヨーコさん、今から、ですか?

うん。どうする?
私は行くわ。一緒に行く?

行きます!
ヨーコさんと二人で走るのはじめてですね。
どこ行きます?

うーん、どこに行こうかなあ…。

ヨーコさんは、笑うとヘルメットを持って先に出て行った。
あたしは、いそいで仕度をして、部屋を出て、階段を下りた。
ヨーコさんの青いR1は、夜の街灯の光の中でとってもきれいだった。
ヨーコさんはR1の横で、もうヘルメットをかぶって準備していた。
すらっとしたたたずまい。
知性的なしぐさ、優しくて厳しい、厳しくて優しい、凛とした女性。
あたしもいつか、あんな女性になれるのだろうか。

あたしは車庫から赤いCBRを引っ張り出して、いそいでヘルメットをつけると、グローブをはめた。
ヨーコさんの隣につけて、CBRにまたがる。
ヨーコさんはヘルメットのシールドを上げて、こっちを見て微笑んでいた。

すみません。準備OKですっ!

あたしが言うと、ヨーコさんは笑った。

じゃあ、行きましょうか?

あ、ヨーコさん!

なに?

どうして走りにさそってくれたんですか?
私、ヨーコさんの機嫌をそこねちゃったんじゃ…?

あのね。
その時、先輩がね、言ったのよ。

え?先輩?

お前の苦しさは、俺にはきっとわからない。
井上の苦しさは、井上にしか、わからないし、井上にしか、乗り越えられない。
井上。俺は、何もしてやれないから、その代わり、バイクでここまで走ってきた。
ひとりぼっちになれる奴だけが、人と友だちになれる。
分かり合えない俺たちでも、走ることは共有できる。
人から見たら、ばかばかしいことだろうし、思い上がりのキザに聞こえるだろうけど、
俺の場合、苦しいとき、答えはいつも、走りの中にあった。
だから、俺には今日、お前にしてやれることはこれしかなかった。
女の子を夜中に走りに連れ出して、悪かったと思ってる。

そう言ったの。

…どういう意味ですか?

さあ…、私にも本当のところはわからないわ。
だから、走りましょ。
今日はちょっと飛ばすわよ。ついてこれる?

ヨーコさんが笑っていたから、あたしも大きな声で答えた。

もちろんです!                (「月と川音」 完)

4 件のコメント:

  1. そう、「本当…」は誰にもわからない。決まりはない。
    本当…なんて、ライダー各人が「感じたこと」で良いよね!

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    1. tkjさん、こんにちは。
      同じ風景を見ても、受け取るものは一人ひとり、みな違う。
      同じ言葉で話しても、伝わるかどうかは、その時その時で、全部違う。
      バイクライディングは、そのことをやさしく厳しく、実感を以て教えてくれるような気がします。

      本当を分かったつもりになるのでなくて、
      わからないまま、求めていく。
      それが、ライダーだと、若い頃に教わったのでした。

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  2. 「井上にしか、乗り越えられない。」
    そう、どんなことも乗り越えその先に道を作って行く。
    それが出来るのは自分だけ。
    強い意志があり、それは自分だけの孤独。自分だけが知っていれば良いこと。
    張り詰めた中でほんのひととき走れること。
    走ることを知っていて良かった。
    1980年代・・そうしながら僕たちは走ってきた。
    そしてきっと、これからも。

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    1. selenさん、こんにちは。

      自分の孤独は、自分で引き受けなくてはならない。
      そこに踏みとどまることが、大事だと、バイクは教えてくれたように思います。
      詐欺まがいの商法や、いかがわしい心理商売は、この弱さにつけこんでくる。
      その甘い誘惑はうそだということを感じ取れるように、感覚を眠らせないこと。

      それは、80年代も、今も、変わらないことだと思います。
      バイクでなくてもいい。

      でも、僕は、バイクを通して学びました。

      孤独な魂の響きあう、走りのセッション。
      それはたぶん、「ヤエー」というノリとは違う連帯のあり方。

      もしそれが、20世紀的だというのなら、
      僕はまだ20世紀を走っているということになるのだと思います。

      でも、21世紀でも、22世紀でも、連帯とは、そういうものだと、
      僕は思います。

       走ることを知っていて良かった。
       1980年代・・そうしながら僕たちは走ってきた。
       そしてきっと、これからも。

      僕は、僕の孤独とともに。本当に、そう思います。

      selenさん、ありがとうございます。

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