2020年5月11日

桜とバイクのストーリー 「センセイとブルターレ」第3回


2015/5/2
「センセイとブルターレ」 第3回


 広島に帰ると、佐崎は自宅近くの大きなバイク屋へ行き、125ccのオフロードバイクと、ヘルメットと、グローブを買った。バイクはカワサキのKLX125というものだった。

 退職して暇になり、離婚して一人になり、季節は春。桜は咲き、散って暖かくなっていった。


 佐崎は、毎日KLXに乗って街中を走った。3月までと違って、何もすることがなかったし、話す相手も、いなかったからだ。何回か転び、少し怪我もした。運転免許試験場で行われる2輪の安全運転講習会に参加し、太田川の河川敷でそっと8の字の練習もした。
 最初、両手の握力はなくなり、左足の親指の背の皮はめくれ、全身が筋肉痛になって、とうとう熱まで出した。これではあのバイクショップの人も私には売れないと思うわけだ…。一人で部屋の中に横になりながら、佐崎は苦笑した。
 しかし、夏が来る頃には、運転にもだいぶ慣れ、安全運転講習会でも若い教官に褒められたりもするようになった。

 夏、佐崎に3月まで勤務していた私立高校から電話があった。夏期講習に教員が足りなく、夏休みの間だけ、古典の講習に来てくれないかというものだった。
 自分はお荷物教員だと自己評価していた佐崎には、意外なオファーだった。
 佐崎は4か月ぶりに「センセイ」になった。
 朝は5時に起きて講習の予習をし、7時に朝食。8時から13時まで高校で進学講習をして帰宅。13時半から昼食をとり、14時から17時まで昼寝。17時から20時まで、KLXでバイクの練習。22時まで入浴と家事。22時から23時半まで古典文学の読書。24時就寝。
 そんな規則的な毎日が、夏休み中続いた。

 ずっと真っ白で、むしろ青い感じだった佐崎の顔は日に焼けた色になり、しかし、ヘルメットの下の頭皮は焼けないので、かなり薄くなった白髪に青白い頭皮と、その下の日焼けした顔は、一種の可笑しさを出していた。
 
 夏休みが終わる少し前、佐崎は校長室に呼ばれ、秋からも時間講師で少しだけ手伝ってくれないかと言われた。
 週3日で6時間とその放課後の講習だけなら、佐崎にも出来そうだった。
 しかし佐崎は、一日考えさせてくれと申し出た。校長は苦笑いし、何でもすぐに決断せずに先に延ばす癖は変わっていないといい、ぜひ前向きに検討してください、夏の講習は生徒の間でも好評でした、と言った。

 佐崎はその日、バイク屋へ行き、KLXを売って、代わりにKLXと同じカワサキのER-6nを買い、そのまま乗って帰った。

 9月、暦の上では秋とはいうものの、広島の9月はほとんど真夏の暑さだった。
 佐崎はいつでも小さなバッグにスポーツドリンクを水で割ったものと、タオルと、幾種類かのサプリメント、そして病院から渡されている薬を入れ、それを背負ってER-6nに乗った。
 火、水、金の3日間は午後から高校へ行き、一日2時間の授業と放課後の講習を行った。朝5時に起きるのは変わらなかったが、朝に散歩を取り入れた。1時間散歩をしたあと、毎日6時から7時は授業や講習の予習をした。7時から朝食を食べ、8時から昼までは毎日バイクの練習に出かけた。仕事のある日は午後から夜は仕事に出かけ、仕事のない月、木はスポーツジムへ通いだした。ごく弱いメニューで、心肺機能と筋力を無理なくつけるように、トレーナーにお願いした。夜は古典の読書をして、早めに寝た。毎日途中でトイレに起きたが、それも習慣化してしまえば、リズムの一つになった。

 やがて10月になり、町のいたるところで金木犀が香り、11月になり、秋も深まって下旬には落ち葉が舞った。
 安全運転講習会では、教官の勧めでトライカーナやジムカーナを始めた。教官は60を過ぎてこんなに成長する人は珍しいと目を見張ったが、それでも佐崎はER-6n慣れたころにやはりというべきか、転倒を喫して修理に持ち込んだバイク屋を心配させたりもしていた。

 広島にも寒い冬が訪れたが、佐崎の暮らしぶりは変わらなかった。安い防寒具をホームセンターで買い、古典の講習とバイクの練習を続けた。
 携帯電話も持たず、パソコンもない佐崎は、時折厚木のバイクショップに手紙を出しては近況を報告し、自分のバイクの様子を訪ね、次の練習には何をすればいいかとか、様々に質問もした。バイクショップのスタッフからは、毎回佐崎の買ったブルターレの写真(その都度撮影したもの)と、アドバイスが丁寧に書かれて、返事が来た。

 冬休み。校長は佐崎に冬季講習も頼むといい、佐崎は受けた。即答した佐崎に、校長は少し驚いたが、笑ってお願いしますといった。

 1月から3月の間も、佐崎は授業と講習に出かけ、ER-6で練習を積んだ。
 しかし、佐崎は一度もツーリングには行かなかった。いつも広島市内と、河川敷と、教習所、そして広い工業団地の中に見つけた空き地で練習するばかりだった。
 一度、安全運転講習会でツーリングに誘われたが、丁寧に断った。いつも親切に教えてくれる若い教官は、
「佐崎さん、クローズドコースの中でどんなに上手になっても、ツーリングと重ねないとわからないこともたくさんありますよ。」
 と、やさしく諭してくれた。だが、佐崎はツーリングに参加することもなく、ただ毎日の練習を重ねていった。

 3月の末に、校長は佐崎を呼び、来年度から再任用という形で復帰しないか、と誘った。
「佐崎先生、この一年、むしろ現役の時よりもずっとエネルギッシュでしたね。生徒や保護者の評判も上々です。ぜひ、その力をもう一度フルタイムで本校のために使っていただきたい。」
 佐崎は、校長に感謝の意を伝え、しかし、即座にその申し出は断った。
「私は、今の時間数が限界です。できれば、来年は放課後の講習だけにしていただけないでしょうか」
「不思議です。先生、先生はこの一年でずいぶん元気になられた。日に焼け、姿勢もしゃきっとしてたくましくなられた。むしろ体力は1年前よりずっとあるのではないですか。今が限界とは、とても思えません。」
「私は…、」と佐崎は言った。
「仕事を辞めたから、元気になったのです。私の能力では、フルタイムの勤務は実はできなかったのです。それに気づかないまま、38年も勤めてしまいました。もしも、来年フルタイムに戻ったら、さらに体力も気力もなくなった年寄りを、この学校が抱えるだけになります。私は、もともと、そういう器ではありません」
 校長はしばらく佐崎を見ていたが、残念です、と言ってあきらめた。そしてあなたのような人が38年も力を十分に発揮できない場所だったこの学校こそが、変わらなければならないのですと言った。
 佐崎は恐縮し、しかし、それは買いかぶりすぎであること、優秀な若い教員がたくさんいるからこそ、この学校が伸びてきたことに間違いはないと言った。


 やがて一年が経ち、4月になった。

 妻と娘からは、年賀状が来たほかは一切連絡はなかった。佐崎も年賀状を二人に送っただけで、連絡は取らなかった。
 引き払うはずの部屋は、そのまま1年間、住み続けていたが、3月の終わりで契約を打ち切り、引っ越すことにした。
 安佐南区の外れの町に、一階が小さな工場で、2階は住居だった小さな建物が売りに出ていた。建坪が10坪しかないその元工場は、一回の床がコンクリで、工作機械が置いてあったようだが今は撤去され、がらんどうになっていた。極小さいが鉄骨造りで、前面はシャッターになっていた。その土地は都市再開発計画地に入っており、10年後には立ち退かねばならず、信じられないような安値がついてた。

 佐崎はその家を買った。
 一人暮らしになって荷物は極少なく、たんすなどの家具もほとんど妻が持って行ったので、引っ越しは至極あっさりと済んだ。

 佐崎の放課後の古典講習は5月の連休明けからになっていた。したがって、4月は丸々自由な時間が取れていた。

 佐崎は、厚木のバイクショップに手紙を出し、佐崎のブルターレを迎えに行くことを告げた。
 ショップからはスタッフ全員が佐崎のブルターレを囲んでいる写真付きで、全員でお待ちしておりますとの返事が速達で届いた。
 (つづく)


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