先輩の後ろに乗って、私ははじめてのバイクにどきどきしていた。
最初は、先輩のアパートの前の小路をゆっくり走っただけなんだけど、何だか遊園地の新しいマシンに乗ったみたいな感じで、どうなるんだろうってドキドキ感があった。
大きな通りに出る前の信号で停まって、先輩が声をかけてきた。
「井上、怖くないか」
「大丈夫です」
ヘルメット越しだし、バイクのエンジン音がしてるから、顔と顔の距離は近いのに、バイクって大声で話すんだ…。
そんなことにも驚いてた。
「大通りにでるから、少しスピードでるぞ。怖くなったら俺のわき腹を、こうやって3回叩け。」
「ハイ」
信号が青になって、先輩は右折して大通りに入った。
バイクの音が、低音から沸きあがるような音に変わった。
でも、速度はゆるやかに上がっていって、私は怖くなかった。
車と同じような速さなのに、風が全身をすり抜けるようにごうごう流れていった。
ヘルメットの中でこんなに風の音がしているなんて、考えたこともなかった。
夜の街はネオンで明るくて、行きかう車もライトをつけてるけど、全然要らないくらい明るいんだってことも、はじめて知った。
よく知ってるいつもの街も、全然違う風景に見えた。視点が高い。そして速く感じる。
何個もの信号を渡り、何回か信号で停まり、街の中をかなり走ってそろそろ町外れに差し掛かる頃、先輩はバイクを止めた。
コンビ二の前だった。
「いったん停止だ。気をつけて降りろよ」
私はバイクを降りたけれど、思っていたより高いところに座っていたのに気づいて少し驚いた。
先輩はバイクをスタンドにかしげてヘルメットを取ると、私が脱げなくておたおたしてたヘルメットを脱がしてくれた。
「ヘルメットのあご紐って、慣れるまではグローブじゃ外しにくいのさ」
先輩が少し笑った。
そういえば、先輩の笑顔って、はじめて見たような気がした。そんなはずないんだけど…。
「井上、どうだ、怖くないか」
「大丈夫です。こわくないです。緊張してどきどきしてるけど。少し慣れてきました。」
「もう少し、走ってもいいか」
「はい」
「郊外に行くけど、いいか、結構暗くて狭い道も走るけど」
「…はい」
私がちょっとためらってから返事すると、先輩はまた少し笑った。
「自分の感覚を持ってるってことは大事だし、とてもいいことだ。遠慮しないで、もうだめだと思ったら合図しろよ」
「はい」
「井上、女の子にこんなこと言うのは何だが、トイレに行っておいてくれ。この先は明るくてきれいなトイレは少ないから」
「……。」
「大丈夫だ。ここから片道45分だ。でも、バイクに乗るとトイレが近くなるものなんだ」
普通、こんな会話しないなあ…、と私は思った。
でも私、先輩の服着て、だぼだぼで、このままコンビ二に入るのは、ちょっと恥ずかしかった。
先輩はそんなところには全く無頓着な感じだった。
私に背を向けてバイクの前にしゃがみこんで何かバイクを診ていた。
私は恥ずかしいのを我慢してトイレに行って帰ってきた。
先輩は私が来るとどこから出したのか、きれいな布を持っていて、私に貸したヘルメットを拭いていた。
「じゃ、ちょっと伸びをして。」
「はい?」
「バイクは風や速度にさらされて体が緊張するんだ。時々、血行を促したり、伸びをして緊張を解いたりしたほうがいい。まして初めてなら、大切だから。」
コンビ二前の駐車場の隅で、私は先輩と二人で伸びをしたり、膝の屈伸をしたりした。
彼は、もう、彼じゃないけど、彼とのデートでは、こんなことは一度もなかった。私はいつも目いっぱい女の子していたから。だいたい今はデートでも何でもないんだけれど。
「それじゃあ、また走るぞ」
私がまたがると、エンジンを掛けて、先輩が言った。
「バイクでは走りながらあんまり話ができない。だから、しぐさや、サインでコミュニケーションするんだ。」
「はい」
「俺がこう…、上体を前傾させたら、加速する合図だ。後ろに持っていかれないように、井上も平行に前傾させて、腰をしっかりつかむ。逆にこう…、背中が寄ってきたら、減速するサインだ。今度は前に放り出される感じになるから、膝で俺の腰を挟んで、体を安定させる。カーブでは、傾くけれど、何もしないで、バイクと一緒に、俺と一緒に、同じように傾いていてくれ。」
「はい。」
「郊外に入ったら、少し飛ばすから、怖くなったらわき腹を3回叩く、いいな」
「わかりました。」
「じゃ、行こう」
先輩はゆっくりバイクをスタートさせた。
あんなこと言ったのに、先輩の運転はおだやかだった。
車の流れに乗って、郊外の道を走り出していた。
郊外といっても、大学のある海沿いの大きな街から、新興ベッドタウンの町へと川を遡っていく片道3車線の道で、ゆっくりと曲がって流れる川に沿って、オレンジの街路灯が明るくカーブを切りながら遠くまで続いて行った。その向こうにベッドタウンの街の明かりがまとまって、光の島みたいに輝いて見え、その上の空はほの赤く、明るんでいた。
進むにつれて車の流れが少なくなり、それに合わせるように流れのスピードが増してきていた。
こんなふうに速度を感じたことはなかった。でも、速度が上がっても、怖さは感じなかった。
道が川の堤防の上を走ると、黒い闇の中に川の流れを気配として感じることができた。
どこかしら、川の匂いがしてきて。
川の匂いなんて、私、感じたことなんてなかったはずなのに、なぜか川の匂いを思い出したような気がしてた。
道は片側3車線から2車線に変わっていた。左手に山の暗い塊が迫ってきていた。右手は川と、開けた平野の夜の明かりが、遠くまで点々と見えた。
すると、先輩が左手で私の左ひざをトントンと叩いた。
なんだろう、と思って先輩に意識を戻したら、先輩の背中がぐっと、前傾した。
あっ、加速するんだ、って思って私も先輩の背中を追いかけるようにしたとたんに、ドンって衝撃が走ると、ものすごい音がバイクからし始めて、バイクが加速を始めた。
思わず腕を締めて先輩にしがみつく、するとさらにバイクが加速していく。
まるで飛行機の離陸みたいだった。それが夜の空気の中で、剥き身で起こるから、全身が持って行かれるような気がした。
グオオオオッてバイクが唸りながら、風がものすごい勢いで前から後ろへ、風というより、海の波を押し切って猛然と走ってるみたいだった。街の灯が流れて線になり、バイクの唸りはキイイイインって感じの音になって。
20秒くらいだったのかなあ、ホントはもっと短い間だったのか、先輩の背中が起き上がってきて、その加速は終わって、少しずつ速度がまた落ちていって、最後はまた普通の速度に戻った。
さっきまでと同じ速さになったはずなのに、さっきまでとは全然違う速さに感じる。
バイクの音が優しく感じて、景色の流れ方も、ゆっくりに感じた。何より風の音が、ヘルメットの中でけっこううるさく感じていたのに、今の加速を感じた後では、静かで優しい音に変わったように感じた。
大きなベッドタウンの入り口についていた。
大きな道はまた市街地に入って行く。
先輩は、川にかかった鉄の骨みたいな大きな骨組みのついた橋の手前で、左に曲がり、川沿いの狭い道に入った。
街灯のほとんどない、暗い道だ。
先輩が言っていたのはこの道のことだったんだ。
川の対岸に街の大きな灯りを見ながら、暗くて細い道を先輩はバイクを走らせて行く。
どこに行くんだろう。
私は先輩にしがみついたまま、ずっとドキドキが止まらないでいた。 (つづく)
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