2016/5/2 |
道はやがて峠を越えた。
県境の峠だった。
道は島根県に入った。
この道を下っていくと、江の川に合流する。そして、しばらく下って、少し外れたところに、めざす並木があった。
それは、小さな桜の並木だ。
もう30数年前、20代だった時分、若かった自分と、若かった元妻と、二人の遠出。
CD125に二人乗りで、ここまで来たのは、デートとしてはほとんど無謀と言うべきものであった。
しかし、妻は、たまたま本屋で見つけた写真集に乗っていたその桜を、ぜひ見たいと言ったのだった。
里の桜はもう散っていた4月も22日。山あいのその桜なら、まだ咲いているかもしれないと佐崎が言うと、妻は、お弁当を作るから連れて行ってほしいと言った。
時は流れた。
妻はもう、私の妻ではない。
私はもう、61だ。
桜は今日、咲いているだろうか。
流れとともに川を下り、右岸へ、左岸へ、何回か橋を渡り、やがて見覚えのある分岐に来た。
ここから支流に入る。
3キロも行けば、その並木だ。
佐崎は左折して細い路に入った。
瑞々しい若葉の香り。暖かい春の陽射し。最高のツーリング日和だ。
道にかすかに覚えがある。このカーブの向こうだったか…違った。次か…。また違った。でも、そうそう、この開けた感じは確かに記憶にある。
そんなことを繰り返していると、だんだん記憶のいい加減さに可笑しくなってくる。もうどうでもいいか、そのうち着くから…と、思った途端、着いた。
急にまた谷が開け、明るく陽が射す小さな盆地に出たのだった。
道が美しい曲線を描いてその盆地の中をかけて行き、先で支流の堤防と一体化して盆地の面から一段高いところに駆け上がっていた。そこに、小さな、桜並木があった。
あ、でも…
佐崎の記憶の中の桜並木は、小さいながらも木々が一本づつ精一杯枝を広げ、その張り切った枝々に花が、咲き切れないと言わんばかりに咲き乱れ、まさに息を飲む、そんな並木だった。妻は、「わあっ…」と声を上げたのだ。あんなにうれしそうな妻の嬌声は、初めて聞いたのだった。そして、記憶の中では、それ以上の嬌声を、妻から聞くことは、ついぞなかった。
しかし、今、目の前にある桜並木は、確かに満開時期を迎えているのだが、木々に勢いはなく、むしろ既に老いを思わせていた。
ブルターレで近づいていくと、確かに木々の幹はごつごつして太くなり、何本かは枝が折れてそこから枯死し始めていた。
小さな並木は、歳をとっていた。
ソメイヨシノは、江戸時代の園芸店が作り出した1本の木から増やしてきた、いわばクローン木。もともと園芸種だし、野生の桜に比べれば、花は美しいが、病気や虫には比較的弱く、寿命は本当に短い。100年も持たないのが多いと、教えてくれたのはやはり妻だった。だから桜の愛好家や「通」の人たちの間では、ソメイヨシノばかりもてはやされ増える傾向にうんざりしている人も多いのだと、妻は言った。
でも、私は桜が好き。ソメイヨシノが好き。
妻はそう言って、桜を見上げ、満足げに並木を眺めていたのだった。
ブルターレを一本の木の側に、根を痛めつけないような場所にそっと停める。
佐崎はバイクを降りてサイドスタンドで停め、ヘルメットを脱いで並木を見上げた。
歳とった桜。しかし、花の色は変わっていない。春の日を受けて、花弁は透き通り、薄いピンク色に色づきながら、けなげに咲いていた。
わずか十数本の並木。
どこのガイドブックにも載っていない。
妻がたまたま見つけた写真集では、多くの桜の写真の中で、小さく載っていただけだった。
しかし、妻はその桜が見たいと言ったのだった。もっともっと、有名な、もっともっと、大きな並木や、桜の巨木や、何キロも続く桜のトンネルなど、たくさんたくさんあったのに、妻はこの並木を選んだのだ。
この並木を、二人でバイクで見に来ていなかったら…と佐崎は思った。
私たちは結婚することもなかっただろう。
小さな幸せを、平凡な日々の中で大事に大事に守りながら暮らすことも、娘が生まれることも、嫁に行くことも、すべてが、この桜を見に来なければ、きっとなかった。きっと始まらなかったのだろう。
並木の端近く、完全に枯死して腐っている樹が一本あった。
時は、流れた。
あの樹は、私か。
それとも、思い出か。
思い出した。
あの日、今日子が抱き付いた樹があったはずだ、どれだろう…。と見回した佐崎の目に、大きなソメイヨシノの老木と、そのそばに停めた、赤い彼の新しいブルターレが目に入った。
あ、あの樹だ。あの樹だった。今日子が抱き付いたのは。
今日子は、あの日、私を選んでくれたのだ…。なんのとりえもない、平凡な私を、このうえなく、愛してくれたのだ。あの日、ここから、あの瞬間から、私たちは始まったのだ…。
そうだ、あの日、私は、心から願ったのだった。この人を幸せにしたい…。この人と歩いていきたい。…そう願ったのだった。
今日子、今日子。
私は、君を、幸せにできなかった…。
佐崎の目から涙が流れた。
もう、あの日々は帰らない。君は二度と、戻ってはこない。
この並木が歳とるように、歳とる中で、枯死する木がでたように、
私は、数十年かけて君の愛を、じわじわと、殺していたんだな。
そして、愛が死んだ家から、君は出て行った。
私から解放された時の、厚木での別れ際のに見せた、君の晴れやかな笑顔。
それは、本当に久しぶりに見る、美しい君だった。
今日子。
今日、この桜を、君と見たかった。
戻れない時を、もう一度だけ、二人でここで、はるかに眺めて見たかった…。
佐崎は、いつしか声を上げて泣いていた。
妻の今日子は、目の前になく、青空の下で泣いている、佐崎の声も、思いも、届くはずもなかった。
ただ、ブルターレだけが、佐崎の声を聴いていた。
美しい、赤い、ブルターレだけが、佐崎をただ、待っていた。
(「センセイとブルターレ」完)
最終回、何度も読みました。
返信削除妻のことを思い出さない日はほとんどありませんが、
思い出して涙を流すことが出来たのは久しぶりでした。
ありがとうございました。
モリシーさん。
削除ありがとうございます。
樹生さん、こんにちは。お久しぶりです。
返信削除3月に定年で退職しました。
現在も一応仕事はしていますが時間はあるので、
ブログを始めました。
良かったら「しろくま手帳 FC2」で検索してみて下さい。
1年前は、個人的な事情を書くのが憚られたので、
「センセイとブルターレ」のコメント欄に、
意味不明なことを書きましたが、
自分のブログに、その「個人的な事情」を、
「夏」というタイトルの創作の形で載せました。
樹生さんの美しい文章には遠く及ばないので、
本当に厚かましいのですが、
気が向いた時に読んでいただければ嬉しいです。
仕事、とても大変そうですが、
お体に気を付けてお過ごしください。