2017/05/15 |
そのバイクショップの中は、広く、きれいだった。
きれいな赤いツナギを着たスタッフがにこやかに出迎えてくれた。3,4人のスタッフがいて、バイクがきれいに並べられ、奥には工場スペースがあるらしかった。カウンターには、2、3人の客が座り、静かに話していた。
…おしゃれなブランド服屋みたいだな。
全くバイク屋らしくない佇まいに佐崎は驚いた。そのまま所在無いままに陳列されているバイクの中を歩き、一台一台を眺めた。
どれもみな、驚くほどに美しかった。…バイクって、こんなんだったか。自分だけが過去の世界から迷い込んだような気がするほどに、そのバイクショップはきれいで、置いてあるバイクはみな知らないものばかりで、佐崎の視線を跳ね返すほどに輝いていた。佐崎はまぶしさにいたたまれないように、目を上げ、バイクから視線を外して、遠くを見るようにした。
そうだ、私も年をとった。
佐崎は離れて見守っているスタッフに会釈をし、そのまま帰ろうとした。すると、店の向こうの角に、台の上に置かれている一台のバイクが目に止まった。やはり見たことのないバイクだ。しかし、そのバイクはこの店のほかのバイクと違って、ボディをカバーする外皮をまとっていなかった。赤いボディ、黒いエンジン、チャコールグレイの鉄パイプフレーム。…艶やかで、精悍なその姿はまた、どこか寂しげにも見え、佐崎の気を引いた。
佐崎は引き寄せられるようにそのバイクのすぐ側まで行き、バイクの側面を眺めた。
「このブルターレがお気に入りですか?」
スタッフに話しかけられ、佐崎ははっと我に返った。気が付かないうちにかなりの時間、このバイクの前で立っていたらしい。佐崎はどぎまぎしながら
「あ、すみません、長い時間。」と謝った。
「いえ、どうぞ、ごゆっくりしていってください。このブルターレがお気に召しましたか?」
話しかけたスタッフは穏やかな顔の佐崎と同じか少し下くらいの年齢の男性だった。
普段なら、ばつの悪いままにそそくさと立ち去るところなのだが、なぜかこの日、佐崎は自然に相手の言葉に反応して話していた。
「…はい、とても。引き込まれるようです。もう少し、見ていてもいいですか。」
スタッフはいつまでもどうぞといい、もし説明が必要なら、いつでも呼んでほしい、向こうのテーブル席でいつでも休憩してよい、フリードリンクもあるので、遠慮しないで見てほしいと告げ、そっと佐崎を一人にしてくれたのだった。
佐崎はそれから小一時間ほどもそのバイクの前に立っていた。くたびれた背広の六十男と、鮮やかで艶やかなそのバイクとはどう見てもつながりなどありそうもなかった。
しかし、1時間後、テーブル席に座り、熱い珈琲を飲みながら、佐崎は先のスタッフに、このバイクを購入したいのだが、と告げたのだった。
スタッフの男性は佐崎に礼を言った。「説明いたしますか」男性はそう言い、そのバイクの方へと佐崎を誘った。
バイクの説明を受けながらいろいろ話すうち、佐崎が現在広島に住んでいること、佐崎の乗車歴がCD125までであり、それが28年前のことだとわかると、スタッフは穏やかに言った。
「本当に久しぶりに、バイクにお乗りになるのですね。そのお相手に私どものバイクを選んでいただいて、ありがとうございます。」
「実をいいますと、」穏やかで気さくなスタッフの人柄に、佐崎はいつもより素直になっていた。
「バイクを買うつもりも、乗るつもりも、こちらのお店に入るまで、全くなかったのです。通りを歩いていたら、バイクの音が聞こえて、本当に久しぶりに、何か大きな音を間近で聞いたような気がして、それで、お店に入ったのです。」
「そうでしたか。それは、何かの縁かもしれませんね」
しかし…、とスタッフは続けた。このバイクはパワーも大きく、久しぶりの方にはあまりお勧めできない。見た目で気に入って購入するが、すぐに戻ってくることもあるのだという。
「私には乗れませんか」佐崎は訪ねた。スタッフはまた、丁寧に説明してくれた。乗れないことはないが、久しぶりのカムバックにこのバイクはきついと思う。まずは125ccクラスのオフロードバイクで感覚を取り戻し、そのあと、400cc~650cc位のスポーツバイクで体を慣らした方が、そしてそのうえで乗りたいとお思いなら、改めて来られた方がまちがいないのでは、と言う。
その説明は厳しい内容ではあったが、佐崎には、いらない客を追い払うためという感じは全然しなく、本当にバイクとその乗り手のことを考えてのアドバイスのように感じられた。
「モーターサイクルは」とスタッフは言った。「リスクがあります。交通事故を起こしたり、巻き込まれたりする可能性はいつも排除できません。」
「はい」
「しかし、そのうえで、それを覚悟して、安全に注意して乗るなら、それ以上の人生の喜びを与えてくれるものだと、私は思います。」
スタッフの言葉は、佐崎を説得しようという風でも、説明しようという風でもなく、ただ、そう思っているからその思いが自然に言葉になって出てきたようだった。
佐崎は少し考えた末にスタッフに言った。
「では、まず、125ccのバイクで練習します。そして少し大きいスポーツバイクに乗ればいいのですね。そして、このバイクを迎えに来たいと思います。」
スタッフの男性は、改めて佐崎を見た。そして、それはとても光栄だが、同じバイクなら広島にも扱い店がある、このバイクは店のオリジナルパーツが組み込んであって、さらに高い。広島の店を紹介ましょうか、1年後か2年後、自信がついたとき、広島の店を訪ねてくれれば、同じ型のバイクはきっとある、と言った。確かに、台の下についている値段は、佐崎には信じられないほどの値段だった。今までなら決して買えない。佐崎の乗っている軽自動車なら新車で3台は買える、そんな値段がついていた。
「ありがとうございます。でも、どうしてか、私は、この子に乗りたいのです。同じ型のほかのバイクじゃなく、このバイクに乗りたいと思います。売っていただければ、ですが」
結局、佐崎は熱意でスタッフを押し切る形になった。
佐崎は今すぐでもカードでの支払いを済ませてよいと言ったが、スタッフは今日は手付金にとどめ、気が変わらなければ1か月後に本契約する形がよいと勧めた。その間に125ccに乗って、バイクを走らせる趣味を自分が持つかどうかを確認してからがよいというのだ。1か月後、解約したときには、手付金も返す。1か月の間、このバイクは売約済みとして誰にも売らない、という話になった。
店に来て、5時間が経ち、もうすっかり夜になっていた。
佐崎は今日中に広島に帰ることをあきらめ、厚木のホテルに泊まることにした。
店のスタッフはホテルの手配に手を貸してくれ、夕食に行くがよければ一緒にどうかと、佐崎を誘った。
その晩は、佐崎から見れば若いスタッフに囲まれての不思議な、しかし楽しい会食となった。店のスタッフたちは佐崎の買うことにしたバイクについて、いろいろと説明し、厚手のパンフレットをくれ、たくさんの写真の入った写真帳もくれた。酒も入り、さまざまなバイクにまつわる話をスタッフが熱心に語る姿が、佐崎には好ましく見えた。
佐崎は、今日離婚する妻を送りにきたことは最後まで言わなかった。 (つづく)
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